第1次南極越冬隊の男性隊員用の玩具、いわゆる「南極1号2号」の正式名称は「保温洗浄式人体模型」と決まり、担当事務官による大真面目にして詳細な「仕様書」も作成された。が、次なる大問題として浮上してきたのが「誰に製造を依頼するか」だった。
なにしろ当時、この手の玩具を製造している業者は皆無。新田次郎の実録的小説「氷葬」にも、そのあたりの事情が次のように描かれている。
〈そういう種類のものは、横浜に製造するところがあるというので、業者を通じて調べたが、探し出すことはできなかった。どうやら、そのようなものを作ったことは、未だかつてないことのように思われた。一般人形製造業者の出る幕ではなかった。大企業、中小企業が製作図面を引くような品物ではなかった〉
そんな中、新田によれば、義足を作る医療器具業者に白羽の矢が立てられたという。
だが、東京・本郷界隈にある医療器具業者を訪ねても、首をタテに振るところはなかった。中にはこんな仕事を持ち込まれて怒り出す業者もいたというが、5軒目の業者が担当事務官の困り果てた顔を見て、ようやく製造依頼に応じてくれたという。
ただし、これには東京・浅草橋にある人形問屋が製造を引き受けた、との異説もある。真相は定かではないが、浅草橋の人形問屋が注文に応じた後、本郷の医療器具業者に製造を依頼したのではないかと、筆者は推測している。その人形問屋があくまでも問屋であった場合、人形の製造は専門の業者に回すことになるからだ。
いずれにせよ、次に問題となるのは金額だった。新田も「氷葬」の中で〈ものがものだけにいくらかかるか見当がつかなかった〉と書いている。
その金額をめぐっては、浅草橋の人形問屋は1体5万円、2体合計10万円で注文に応じたとの指摘もある。一方、新田によれば、本郷の医療器具業者は1体1万9000円、2体合計3万8000円で製造を引き受けたとされている。
仮に筆者の推測が当たっているとすれば、その差額は6万2000円にも上ることになる。時に1956年(昭和31年)。当時であればあながち、ありえない話ではない。
ちなみに新田によれば、製造を引き受けた医療器具業者は、明治初年からの業績を誇る老舗だったという。(文中敬称略。つづく)
(石森巌)