身長227センチ――。これは大巨人と呼ばれたアンドレ・ザ・ジャイアントの213センチ、ジャイアント馬場の207センチをはるかにしのぐデカさだ。その人物とは、相模三浦氏の最後の当主、三浦義意(みうら・よしおき)。
三浦義同の嫡男として生まれた義意は通称・荒次郎と呼ばれ、「八十五人力」の異名を持つ勇者だった。三浦浄心の「北条五代記」には、背丈7尺5寸(227センチ)と記されている。
北条早雲を祖とする後北条氏と戦うが、永正10年(1513年)頃には岡崎城、住吉城(現在の逗子市)を奪われて、三浦半島にある三崎城に籠城。父とともに3年近くにわたって籠城戦を展開した。
最後の合戦で身につけた甲冑は、鉄の厚さが2分(6センチ)もあったという。白樫の丸太を1丈2寸(364センチ)に筒切りにしたものを八角に削り、それに節金を通した金砕棒を手に戦った。
逃げる敵の兜をその金砕棒で打つと粉々になり、胴にまで達したという。横にひと振りすると5人、10人を押し潰し、殺した敵の数は500人を超えた。
この戦いで戦死したとも、あるいは周囲に敵がいなくなったことを見届けて自ら首をかき切ったともされるが、定かではない。その首は後北条氏のいる小田原まで飛び、3年の間、生きていたとの伝承が残っている。
戦国時代の日本人の平均身長は、男性が157センチ、女性が145センチ程度と推察されている。豊臣秀吉は154センチ、江戸幕府の初代将軍・徳川家康も159センチほどだったという。あるいは公益財団法人瑞鳳殿の公式サイトによれば、戦後行われた発掘調査で、独眼竜・伊達政宗の身長は159.4センチだったと紹介されている。
そんな戦国時代の武将に比べ、227センチの義意はあまりにも巨大。敵にはまさに金棒を手にした、リアル鬼に見えたかもしれない。
(道嶋慶)