松本人志の性加害報道をめぐる動きが、大きく波紋を広げている。そのさなかに、笑いの世界を描く作品を見る。岡山天音が笑いの道を目指して突っ走る主人公・ツチヤを演じた「笑いのカイブツ」である。
岡山は気になる俳優だった。最近では「キングダム 運命の炎」が印象深い。山﨑賢人扮する武将・信(しん)の歩兵のひとりである尾平の役が温かみにあふれ、独特の人間味があった。付け歯をして原作の登場人物に近づけたというから、俳優魂も申し分ない。
ツチヤは笑いのネタを考える毎日を送っている(ネタはラジオ番組に投稿)。その向き合い方が尋常ではない。生活時間のほとんどをネタに集中する。アルバイト中でもネタを考えているから、すぐにクビになる。
多くの人が、気を使いながら対人関係を保とうとしている時代だ。そのような時代に、周囲を見ない、あるいは周囲が見えない破天荒な姿、目標にのみ猪突猛進する生き方は通用するのか。
それが岡山の演技の質にかかわってくる。彼の演技もまた、まったくブレない猪突猛進である点が重要だ。自分でも才能があるかどうかわからない。でも、体の内部から突き上げてくるような笑いの創作エネルギーを閉ざすことはできない。閉ざしたら、自分ではなくなる。
岡山はそのエネルギーのほとばしりを、全身で表現していく。あまりに向こう見ずで、画面が軋むような不愉快な場面もある。それも岡山のエネルギーの出し方に遠慮会釈がないからである。
そこに救いの手が差し伸べられる。ツチヤの才能を買う先輩芸人・西寺(仲野太賀)と、ふと街で知り合った派手な風貌の若者・ピンク(菅田将暉)だ。
ツチヤをラジオの仕事に導いた西寺は、番組スタッフに何を言われようが、彼をかばい続ける。飲み屋の店員として働き始めたピンクは、自身の職が危うくなることを承知で、その店で暴れ出したツチヤを擁護する。
ツチヤと周囲の関係に変化が現れるのは、2人の登場からだ。どれほど身勝手な男に見えても、目標に向かって突き進むツチヤを理解し、守る人がいた。西寺は才能を認め続けた。ピンクは夢を託した。ツチヤの暴走が、別の色に染まり出した。
実は映画の冒頭から最後まで、ツチヤに寄り添う人物がいた。片岡礼子扮する母親だ。態度が悪く、だらしなく見える息子に怒りもせず、絶望したりもしない。内面は不明ながら、息子をひたすら信じているように描かれる。
それを思うと、ツチヤはもともと見守られていた気もするが、母親では物語の説得力に限界がある。だから先の2人のような、純然たる他者が必要なのだった。そのあたりの描写の機微も見どころであろう。
監督は、本作が商業映画デビューという滝本憲吾。井筒和幸、廣木隆一、中島哲也、武正晴らの監督作品で助監督を務めてきたと、プロフィールにある。
現場で鍛えられてきた監督ということだ。安定した画面造型、卓抜な俳優の演技を見ると、なるほどと思わされる。うれしくも、嫉妬したくなるほど「映画の神」に見守られた作品ではないか。
(大高宏雄)
映画ジャーナリスト。キネマ旬報「大高宏雄のファイト・シネクラブ」、毎日新聞「チャートの裏側」などを連載。新著「アメリカ映画に明日はあるか」(ハモニカブックス)など著書多数。1992年から毎年、独立系作品を中心とした映画賞「日本映画プロフェッショナル大賞(略称=日プロ大賞)」を主宰。2023年には32回目を迎えた。