1990年は全日本プロレスにとって試練の年だった。4月にトップレスラーだった天龍源一郎がメガネスーパーの新団体SWSに引き抜かれ、その後、谷津嘉章、ザ・グレート・カブキらもSWSへ。最終的に14人もの選手、レフェリー、スタッフが引き抜かれてしまったのである。
タイガーマスクから素顔になった三沢光晴、川田利明、小橋健太(現・建太)、菊地毅が超世代軍を結成。〝打倒!ジャンボ鶴田〟を掲げて新たな戦いの図式が生まれ、新日本プロレスとの協調路線で難局を乗り切ったが‥‥年末にもアクシデントに見舞われた。
11月30日、帯広市総合体育館における「’90世界最強タッグ決定リーグ戦」公式戦でアンドレ・ザ・ジャイアントと組んでドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンクのザ・ファンクスと対戦したジャイアント馬場が、ドリーと同体で場外に転落した際に左大腿骨を亀裂骨折。救急車で病院に搬送されたのだ。209センチ、135キロの巨体を支える足を骨折というのは、馬場にとって致命的とも言える大ケガ。マスコミ各社は「馬場、引退の危機」と書き立てた。
こうした沈滞ムードの中で、底力を発揮したのはジャンボ鶴田だ。天龍離脱直後の6月8日の日本武道館で、素顔になったばかりの三沢に逆転負け。館内は大三沢コールに包まれ、鶴田でも天龍でもない新時代の風景が生まれたが、この時の屈辱が鶴田の中に眠っていた怪物を覚醒させた。
3カ月後の9月1日の日本武道館における、スタン・ハンセンの三冠ヘビー級王座への挑戦者決定戦として組まれた再戦では、三沢に真後ろに叩きつける最上級のバックドロップ、ラリアット、ダメ押しのバックドロップ・ホールドで完勝して「全日本プロレスのエースはジャンボ鶴田なんだということをファンにわからせたかった」と胸を張った。
なお、この鶴田と三沢の再戦は1万6500人(超満員札止め)を動員。鶴田軍VS超世代軍の図式が浸透し、鶴田VS三沢が1つのブランドになったことが証明されたのだ。
鶴田のハンセンへの挑戦は年明け91年1月19日、松本市体育館。欠場中の師匠にエールを送るかのように、馬場の得意技ランニング・ネックブリーカー・ドロップを炸裂させてハンセンをピンフォールして三冠王座を7カ月ぶりに奪回。ハンセンを完璧な形でフォールしたのは、日本人レスラーでは猪木、馬場に次ぐ3人目の偉業だった。
鶴田の快進撃は続く。春の祭典「チャンピオン・カーニバル」は9年ぶりに覇権を争うリーグ戦形式になって、パートナーの田上明、超世代軍の川田と同じBブロックにエントリーされ、この2人をいずれもバックドロップで粉砕して全勝で優勝戦に進出。同じく全勝でAブロックを勝ち抜いたハンセンと4.16愛知県体育館で対峙した。
2日後の18日には日本武道館で三沢との三冠防衛戦が決まっている鶴田は「ここで負けたら三冠戦の意味がなくなるから、今日は内容よりもとにかく勝ちにいく」と宣言。ハンセンのラリアットより一瞬早くジャンピング・ニーを炸裂させて再びピンフォール勝ち。80年大会以来2度目の優勝を飾った。
そして三沢との三冠戦。怪物的な強さを発揮した鶴田はバックドロップ3連発で三沢をKOすると、コーナーに駆け上がると「オーッ!」と、勝利の雄叫びを6連発。
「全日本プロレスのナンバー1はハンセンでも三沢でもない。ジャンボ鶴田だということをファンのみんなにわからせるにはこれくらいやらないと。同世代の天龍にしろ、長州にしろ、ちょっと元気がないみたいだから、この年代はまだまだ負けないというのを見せないとね」と、珍しく他団体の選手の名前まで挙げて強さをアピールした。
この2日後の20日、後楽園ホールで「ファン感謝デー」が開催され、メインで鶴田&田上&渕正信の鶴田軍と三沢&川田&小橋の超世代軍ががっぷり四つ。時間の経過を忘れさせる一進一退の攻防が続き、51分32秒、三沢がタイガー・スープレックスで田上を仕留めると、6選手への熱烈なコールが爆発。
この日は3月1日に退院した馬場が久々にテレビ解説席に座ったが、馬場が席を立とうとすると馬場コールが発生し、最後は後楽園ホールがゼンニッポンコールに包まれた。この6人タッグは鶴田軍VS超世代軍の完成形と言われている。
6月1日、日本武道館。馬場が183日ぶりに奇跡のカムバック。
ラッシャー木村&渕を従えてアブドーラ・ザ・ブッチャー&キマラ1号&2号と激突した馬場は、先発を買って出てキマラ1号にラリアット、ブッチャーとはチョップVS地獄突きの攻防を見せ、最後は新兵器のDDTでキマラ2号を撃破。
超世代軍の頑張り、それを上回る鶴田の怪物的な強さ、そして馬場の復活‥‥全日本は1年で天龍離脱ショックを払拭したのだった。
小佐野景浩(おさの・かげひろ)元「週刊ゴング編集長」として数多くの団体・選手を取材・執筆。テレビなどコメンテーターとしても活躍。著書に「プロレス秘史」(徳間書店)がある。