「高倉さんは撮影前・後のお礼参りなど、事あるごとに寒川神社を参拝し、一心に祈りをささげていました。一般の参拝者に迷惑がかからないよう、早朝や夜などの時間帯を選び、たった1人で訪れていたそうです」
こう話すのは、宗教哲学・民俗学が専門の京都大学・こころの未来研究センターの鎌田東二教授。高倉は八方よけの守護神として信仰される「寒川神社」(神奈川県)の50年来の崇敬者でもあった。同神社発行の月刊社報「相模」(77年1月発行・第49号)で、高倉は「私と信仰」と題したエッセイも寄稿していた。こんな一節がある。
〈「苦しい時の神頼み」と人はよく言います。自分が苦しく辛くなったとき、人は神に手を合わせます。小生も少なからず、その部類の人間に入るのではないかと思っております。一見、華やかにみえるこの世界で仕事をしていますと、人には決して話せない苦しいこと、悲しいことが一杯です。プロである限り、プロとして厳しい勝負の世界で戦わなくてはなりません。どんなに悲しいこころでも、どんなにつらい思いでも、決して表面に出してはプロとしては失格です。
切なくなった時、身もちぢまる寒い夜、誰も居ない神社にひっそりとお参りに来るのです。一人佇み、手を合わせていますと、今まで台風のように荒れ狂っていたこころも静かな川の流れのように落ち着きます〉
エッセイが掲載された77年といえば、高倉が「最期の手記」でその極寒のロケの苛酷さから「自分を変えた一本」と明かした「八甲田山」、任侠路線を脱却し、新境地を切り開いた「幸福の黄色いハンカチ」が上映された年。エッセイを書いた頃は、ちょうど両映画を撮影中の時期に当たる。
鎌田氏はエッセイから高倉の宗教に対する「凄み」を感じたという。
「多くの人は商売繁盛や家内安全など、現世利益のためにこの神社を参拝しますが、一方で神社は『こころ』を静かに深く鎮める力を持っている。高倉さんの祈りへの気持ちは敬虔で純真そのもの。寒川神社は高倉さんにとって“心鎮め”の聖地で、祈りの本質を理解していたんでしょう」
そんな高倉の精神世界への崇敬は「食」にも反映されている、と鎌田教授は指摘する。
「京都の鴨川沿いにある老舗鳥料理店の店主の話では、高倉さんは80歳を超えても年に1、2回わざわざ東京から京都まで車を運転して1人で鳥鍋を食べに来ていたそうです。静かに食べ、静かに帰る‥‥。手を合わせ鳥鍋を食す姿は、まるで修行僧だったそうです。寒川神社の参拝の所作と同様、高倉さんは人間が生きるうえで欠かせない食事を通して生かされている自分の命の尊さを実感し、感謝していたのかもしれません」