また、59年に節分会に招かれたのを機に、長野・善光寺には、30年以上も、節分の日の参詣を続けたという。善光寺関係者が言う。
「アフリカでロケ中の時も、この日には参詣のために帰国したほど。周りに迷惑がかからないよう深夜に寺を訪れていましたが、いつしか地元で有名になり、近隣の大学の映画研究サークルがコーヒーを用意して待つようになって、足が遠のいてしまったようです」
しかし、晩年に至るまで、善光寺への信仰は続いた。善光寺の職員が証言する。
「毎年1月末になると祈願札の依頼がありました。自身のものだけでなく、親交のある方のために『心願成就』『商売繁盛』など、十数件の申し込みがありました。一括して高倉さんのほうに送り、それをご本人が配布されていたようです」
これほどの強い善光寺との結び付きについて、高倉は自身へのインタビュー集や著書で明かしている。
〈今年はいそがしいからやめてしまおうか、と思うこともあったが、そう思うだけですでに気持ちが悪く、いたたまれない気がして、どんな無理をしても、信濃路を目指した。なぜそこまで善光寺なのか。自分のこだわりが不思議であり、おかしくもあり、自分で自分の気持ちをはかりかねていた〉(「高倉健インタビューズ」プレジデント社)
ところが善光寺詣でを始めてしばらくたった頃、5代前の先祖に当たる小田宅子氏ら一行が天保時代に九州から長野の善光寺まで出かけていたことを知ったという。そして〈理屈ではなく、祖先の霊とぼくの魂が呼び合っていたのかもしれない〉(「あなたに褒められたくて」集英社)と納得するのである。
また、高倉から前述の善光寺のお札を送られていた知人の一人はこんな話も明かす。
「お札の返礼に、私の信心する香川・金刀比羅宮のお札を高倉さんに送っていました。『単騎、千里を走る。』(06年)の撮影は中国奥地で行われるなど過酷なものになったのですが、高倉さんは日本を発つ前、ひそかに金毘羅参りにも訪れてくれていたんです」
さらには〈いい映画には役者が発する気が現れている〉(「高倉健インタビューズ」)と“気”の重要性を説いていた。高倉と親しかった書籍編集者が言う。
「高倉さんは『気を充実させるには、心の平静を保つ必要がある』ということもよく口にしていた。『夜中に日本刀を引っ張り出して、眺めていると心が安らぐ。日本刀には刀匠の気がこもっているから』とも言っていましたね」
神仏を問わない信仰心、荒行、気功‥‥高倉はなぜ、精神世界に傾倒していったのか。
高倉をよく知る東映元会長の高岩淡氏が言う。
「やはり戦争体験が大きいでしょう。当時、中学生の健さんは、疎開先の寺の本堂で玉音放送を聞いたそうだけど、周りで泣き崩れる大人を見て『それまで信じていたものが足元から崩れ、絶望感と寂寥感に襲われた』と話していたのを覚えています」
書籍編集者はさらに、幼少期の体験を理由にあげる。
「幼い頃に高倉さんは肺結核を患い病弱で小学2年の時に学校を1年休み、自宅療養していたんです。『病気が早く治るように母親と近くの神社にお参りに行ったり、毎日神棚に向かって手を合わせている母の姿をたまに思い出す』と、当時を振り返っていました」
晩年のNHKのインタビューで故郷である福岡の炭坑町について「乱暴な町だった。毎年お盆の盆踊りがあった後、必ず殺人があって、朝学校行く時、必ず(遺体に)ムシロがかけてあったりね」という原体験を明かしていた高倉。我々が思う以上に実は、はるかに死というものが身近だったことが、スターの孤高と相まって、独特の宗教的思想を育んでいったのかもしれない。