名越 私はロシアに通信社の特派員として駐在していましたが、ロシアのウクライナ侵攻をなぜ外交で止められなかったのかについて、非常に重要な問題と認識しています。21年、バイデン大統領は、プーチン大統領に「米軍は侵攻があっても介入しない」と言っていました。これは非常にお粗末だったと思います。
薮中 「侵攻すると経済的コストがすごくかかる」としか言っていませんでした。しかも、米国は軍を出さないと断言したのです。
名越 あの時、米国はロシアに「もしウクライナに侵攻したら、重大な結果を招くぞ」と強く脅しておけばよかったんですね。米国はプーチン大統領に、うまくあしらわれたという感じです。
薮中 ロシアが米国に求めていたのは、ウクライナが「NATO(北大西洋条約機構)」に加盟しないことへの明確な保証です。それに対して米国はゼロ回答でした。
名越 米国の政権が交代するかもしれないからか、ロシアは文書での回答を要求していました。それなのに、バイデン大統領は「ウクライナはまだ民主国家とは言えないから、NATOに当分入ることはない」とメディアに向けては言っていました。
薮中 「NATO」については、入りたい国は誰もが手をあげることができるオープンな組織。だから初めからウクライナを加盟させないとは言えません。それでも外交官なら、いくつでも話し合いのための対応策を考えないとダメです。それなのに米国のブリンケン国務長官は「ロシアは誠意をもって話すつもりがないから、話しても意味がない」と言ったそうです。これが真実なら外交官として失格でしょう。誰も問題にしていませんが、21年11月に米国は「米・ウクライナ戦略的パートナーシップ憲章」に署名しています。同時期にロシアは10万人の軍隊をウクライナ国境に展開させて侵攻作戦に備えていました。
名越 あの署名についてはもっと検証するべきですね。
薮中 憲章に書かれているのは、ウクライナの平和は米国が守るという内容です。
名越 でも、先ほど出たように、バイデン大統領はプーチン大統領に軍隊を出さないと伝えていました。
薮中 矛盾していますね。米国の対ロシア抑止戦略は完全に失敗に終わったと言えます。
名越 プーチン大統領が5期目の就任後、初の訪問先として中国を選んだのは、中国を重要視している証拠でしょう。
薮中 日本も中国にはもっと向き合うべきだと思っています。
名越 ただ13年に発足した習近平体制との付き合いは難しいですね。15年の日中首脳会談で、安倍晋三首相と習近平国家主席は目も合わせていませんでした。
薮中 その習近平体制で私が驚いたのは17年の安倍・習近平会談で、完全に終わったはずだった08年の「東シナ海におけるガス田の共同開発の合意」を再確認してきたことです。これは私と王毅外相でまとめたもので、東シナ海を中間線で割るという日本の主張に沿ったものです。
名越 海上保安庁の巡視船に中国漁船が衝突した事件(10年)で、合意は消えたと思われたんですね。
薮中 ところが、なぜか習近平はこの合意を確認したわけで、08年合意は今も生きています。
ゲスト:薮中三十二(やぶなか・みとじ)元外務省事務次官。1948年大阪府生まれ。大阪大学法学部中退、米コーネル大学卒業。北米局課長時代に日米構造協議を担当。アジア大洋州局長として六カ国協議の日本代表を務め、北朝鮮の核や拉致問題の交渉にあたる。経済・政治担当外務審議官、外務事務次官を経て10年に顧問に就任。現在、大阪大学特任教授、グローバル寺子屋「薮中塾」で若者を指導。
聞き手:名越健郎(なごし・けんろう)拓殖大学特任教授。1953年岡山県生まれ。東京外国語大学ロシア語科卒業。時事通信社に入社。モスクワ支局長、ワシントン支局長、外信部長などを経て退職。拓殖大学海外事情研究所教授を経て現職。ロシアに精通し、ロシア政治ウオッチャーとして活躍する。著書に「秘密資金の戦後政党史」(新潮選書)、「独裁者プーチン」(文春新書)など。