天下人・豊臣秀吉に耳鼻をそがれた姿で殺された茶人がいる。山上宗二(やまのうえ・そうじ)である。
わび茶の完成者で、茶聖ともいわれた千利休は豊臣秀吉の寵愛を受けていたが、天正19年(1591年)、突如として秀吉の逆鱗に触れ、聚楽屋敷内で切腹を命じられると、70歳でこの世を去った。
だが、切腹には自身だけでなく一族の名誉を保つという社会的な意味もあり、町人など身分の低い農民、町人身分には許されない処刑方法だった。
利休は境の商家の出身だったが、秀吉の側近で、多くの大名に影響力を持っていた。また、禁中茶会のため参内が許されており、ある意味、名誉ある死だった。
ところが利休の高弟のひとり、宗二の処刑方法はなんとも無残なもの。宗二は20年間、利休から茶の湯を学び、茶匠として秀吉に仕えた。ところが天正12年(1584年)、理路整然と意見を述べたため追放され、浪人になった。
その後、前田利家に仕えたが、天正14年(1586年)にも秀吉を怒らせて出家し、高野山に逃亡したとされている。のちに小田原に向かい、北条氏のもとで茶の指南をすることになったという。
北条早雲末子で、箱根権現の別当となった北条幻庵も、宗二から茶道を学んだといわれている。
天正18年(1590年)、秀吉が「小田原征伐」を開始した。当初は宗二も小田原城に籠城していたが、茶の湯を通じて交友があった皆川広照が、秀吉が投降する際に同行。師である利休の仲介もあって、秀吉との面会が許された。秀吉はこの時、宗二を再登用するつもりだった。
勝者である秀吉はもちろん言いたい放題で、北条の人間の悪口を言い立てる。そのひとりに幻庵もいた。宗二は幻庵に対する秀吉の発言に、反論したという。
この頃の秀吉はもはや裸の王様状態で、他人の言葉に耳を貸すわけがない。反論に烈火のごとく怒り、耳と鼻をそぐように命じたのである。その上で首を刎ねた。
宗二は茶人らしからぬ姿を晒す最期を遂げたのである。享年46。箱根湯本の早雲寺に追善碑がある。
(道嶋慶)