巨人の戸郷翔征投手が、5月24日に甲子園球場で行われた阪神戦でノーヒットノーランを達成し、野球ファンをうならせた。
それもそのはずで、阪神の甲子園での被ノーノ―は、1965年に広島の外木場義郎に喫して以来の59年ぶり。さらに巨人戦となると、これまでは1リーグ時代の1936年9月25日と1937年5月1日に、伝説のエース・沢村栄治が大阪(現・阪神)戦で達成したのみで、戸郷は87年ぶり2人目となった。しかも、甲子園球場で記録したとなれば、前者の36年以来となる。
そんな戸郷の快挙で再びクローズアップされた沢村の快投を、スポーツ紙デスクが過去の資料などから回顧する。
「沢村の全盛期は、まさにこの時代。36年と37年で連続最多勝。特に37年は24勝をあげ、防御率が0.81、そのすべてが完投勝利でした。他球団がなかなか歯が立たなかったというのもうなずけます。当時の大阪(阪神)タイガース打線は、投手をマウンドより前に立たせて打撃練習を行い、沢村の剛速球を攻略したという伝説が残ってますね」
沢村から喫した二度の屈辱に対し、タイガースが一矢報いたのが1940年のこと。場所は大連の満倶球場だった。伝統の一戦が現・中国の大連市で行われていた事情も含め、前出のスポーツ紙デスクが話す。
「当時、大連など中国東北部は満州国の範囲で、実質的に日本が支配していました。それもあって、日本野球連盟は紀元二千六百年記念行事の一環として、夏季シーズン(春季・夏季・秋季の3シーズンに分かれていた)をまるまる満州で行うことを決定、全9球団が海を渡り、大連や新京(現・長春)など4都市を転戦して戦ったのです。戦争の影響で英語の使用を自粛されていたことで、タイガースは『阪神軍』へと球団名を改称していましたが、その満州シリーズの8月3日、阪神軍の三輪八郎投手が巨人相手にノーヒットノーランを達成したのです。これは、巨人が1リーグ時代に食らった唯一のノーノー記録となりました」
また、伝統の一戦で次に大記録が達成されたのは1965年のこと。6月28日、前年の優勝にも貢献した、阪神のバッキーが甲子園球場で達成。これは、巨人のV9最初の年だった。
「くしくも、沢村が阪神相手に2度のノーノーを達成した巨人と、バッキーが達成した阪神で采配を振るっていたのは、プロ野球史上唯一、巨人と阪神の両球団で監督となった藤本定義氏。藤本氏は阪神の監督としての最多勝利記録514勝を持っています。先日、阪神監督として500勝を達成した岡田彰布監督がこの記録を超えるのは時間の問題ですが、そんなシーズンに戸郷が87年ぶりの快挙を成し遂げたのも、何かロマンを感じますね」(前出・スポーツ紙デスク)
伝統のGT戦で、次にノーヒットノーランが見られるのはいつの日だろうか。
(石見剣)