日本経済を牽引する実業家を時に財界人と呼ぶが、彼らの中には政府の経済・産業政策に大きな影響力を持つ黒幕もいた。その点で言えば、小林中あたるは戦後日本における最強の財界人の1人に数えられる。一時期、「影の財界総理」の異名をとった人物の来歴をまずは振り返る。
小林は1899(明治32)年、山梨県の有力者で石和銀行頭取である実父の矢崎貢の次男として生まれた。が、生後まもなく母方の祖父で大地主・小林家当主の養子となり、矢崎中から小林中になった。早大に進むも中退し、いったんは石和銀行取締役・支配人となるが、1929(昭和4)年、30歳で生命保険大手・富国徴兵保険(後の富国生命保険)に転じた。
当時の富国保険社長は、「鉄道王」と呼ばれた根津財閥の初代当主である根津嘉一郎で、小林はその根津社長の秘書となった。根津は当時の財界重鎮で、小林は文字通り「懐刀」として財界活動を支えることで経験と人脈を築いていく。
その頃、特に小林の人脈の基盤となったのが、若手実業家グループ「番町会」だった。同会は日本運送や日本鋼管、王子製紙などを経営し、東京株式取引所理事長や日本商工会議所会頭を歴任した郷誠之助が主宰し、財閥の御曹司などが多く所属していた。
1934(昭和9)年、その番町会のメンバーたちが株売買で不正をしていたとして検挙される「帝人事件」が発生し、小林も逮捕・起訴されたが、最終的には無罪となっている。何とか助かった小林は1935(昭和10)年に関東瓦斯の常務に就任。大戦後期の1944(昭和19)年まで兼任した。本籍の富国保険でも順調に出世して、1938(昭和13)年に取締役、翌年に常務、翌々年に専務に就任。そして、太平洋戦争中の1943(昭和18)年にはついに同社社長となる。この時、44歳だった。
その間、晩年の根津嘉一郎の直属の大番頭として根津財閥系企業グループの有力者の1人になる。その中で深い関係を築いたのが、根津財閥系の有力企業、日清紡績の宮島清次郎社長だった。宮島は昭和期の財界フィクサーで、そんな大物を後ろ盾として、小林はさらに人脈を広げた。それは財界のみならず官界にも及び、当時の大蔵省国税課長だった池田勇人と親交を結んだ。この交誼が後に大きな意味を持つことになる。
戦後、富国徴兵保険は社名を富国生命保険に変更。小林はそのまま社長を続けた。1946(昭和21)年には、財界活動で親しかった東急グループ総裁の五島慶太が公職追放になったため、請われて東急電鉄社長に就任するなど、小林は戦後の混乱期に財界の多くの人から頼りにされた。
それだけに保険業界での発言力は突出しており、1947(昭和22)年には生命保険協会会長に就任。こうして名実ともに財界の実力者となっていったのだ。
黒井文太郎(くろい・ぶんたろう)1963年福島県生まれ。大学卒業後、講談社、月刊「軍事研究」特約記者、「ワールドインテリジェンス」編集長を経て軍事ジャーナリストに。近著は「工作・謀略の国際政治」(ワニブックス)