もっとも、ここで終われば「影の財界総理」にはなっていない。
転機は1951(昭和26)年に、日本開発銀行(以下、開銀=現・日本政策投資銀行=)の初代総裁に就任したことだった。この銀行は戦後の復興政策を主導した復興金融金庫を前身とする政府の金融機関で、当時の大蔵大臣である池田勇人が主導して設立された。池田と小林は前述したように旧知の間柄だが、じつはこの時に小林を政府に推挙したのは、やはり前述した日清紡績の宮島だった。小林の実力を宮島は高く評価していたためだろう。
小林はこうして51歳で、日本の基幹産業を支える開銀の舵取り役となり、押しも押されもせぬ経済界の重鎮となったのだ。小林は池田と直接話ができる立場だったが、汚職の噂も一切なく、そこがまた評価を上げる一因となった。開銀は鉄鋼業、造船業、自動車製造業に大規模な融資を行ない、戦後日本の産業の基礎を大きく発展させた。総裁としての小林の功績は誰もが認めるところだろう。
開銀総裁を1957(昭和32)年に退任すると、同年、インドネシア賠償交渉の政府代表となり、同国との平和条約・賠償交渉をまとめた。翌年にはアラビア石油取締役に就任するが、表立っては財界の大きなポストには就かなかった。しかし、1960(昭和35)年、親友の池田勇人が首相に就任すると、池田政権が進めた所得倍増政策を財界から支えた。当時、池田政権と深い関係にあった有力な財界人が「財界四天王」と呼ばれたが、小林はその1人だった。他の3人はすでに本欄で紹介した桜田武(日清紡績社長)、水野成夫(産経新聞社長)、永野重雄(富士製鉄社長)で、いずれも小林同様に、前述した宮島の薫陶を受けた面々だった。
中でも小林は時の首相とツーカーの仲であり、しかも清廉な性格だったため、発言力は突出していた。なのに、表立ったポストに就いていなかったがゆえに、「影の財界総理」と呼ばれたのだ。他方、財界以外の活動にも積極的で、1960(昭和35)年にアジア経済研究所会長に、1962(昭和37)年には海外技術協力事業団(現・国際協力機構)の初代会長にも就任し、日本の国際協力にも尽力した。
ますます財界重鎮としての小林の影響力は大きくなり、盟友・池田が政権を去った後も健在だった。佐藤栄作政権時の1965(昭和40)年には財政制度審議会会長に、また1968(昭和43)年には外資審議会会長に就任。他にも経団連や日経連の常任理事なども務め、いわゆるご意見番として政府の経済政策に関わった。その後、アラビア石油では1968(昭和43)年に社長に就任し、1971(昭和46)年まで務めると、2年後には日本航空の会長に抜擢される。小林は82歳でこの世を去るが、その4年前までJALを率いた。その半生を戦後の復興時の基幹産業育成から、高度成長期の経済政策を牽引することに捧げたのだ。
いわば、昭和の経済大国ニッポンの生みの親の1人である。「コバチュー」の愛称で親しまれたのも、その敬意の表れなのだろう。
黒井文太郎(くろい・ぶんたろう)1963年福島県生まれ。大学卒業後、講談社、月刊「軍事研究」特約記者、「ワールドインテリジェンス」編集長を経て軍事ジャーナリストに。近著は「工作・謀略の国際政治」(ワニブックス)