2020年2月11日午前3時半。夕暮れ時から夜にかけて咲き、翌朝には散ってしまう。野村克也が自らをたとえた「月見草」のように、84年の生涯に幕を下ろした。
虚血性心不全。家政婦が浴槽の中でぐったりしているところを発見した。
くしくも17年12月8日午後4時9分に85歳で急死した愛妻・沙知代と同じ病気。ともに自宅で亡くなった。
野村は沙知代が亡くなった際、憔悴した表情でこう話している。
「オレの方が先に逝くと思ったのに‥‥」
77年9月、南海(現ソフトバンク)の選手兼任監督だった35歳の野村は、内縁関係だった38歳の沙知代との交際で、私生活を野球の現場に持ち込んだなどとマスコミから批判された。
「野球を取るか、女を取るか」と迫られて、「仕事はいくらでもあるが、沙知代は1人しかいない」と応じて、シーズン2試合を残して解任された。
野村は大阪を去り、東京に新天地を求めた。知らない土地だ。将来が見えない。野村がたまらず口を開いた。
「これからどうしようか?」
沙知代はあっけらかんと言った。
「なんとかなるわよ」
この言葉が支えになった。人生なんとかなる。生きていける。やれる。
以来、沙知代と二人三脚で歩んできた。野村は南海に続き、阪神でも沙知代の脱税事件で監督を解任されたが、かばい続けた。
2人には「夫婦の絆」という月並みな言葉ではなく、絆を越えた強固な結びつきがあった。その片方が先に逝った。
一説には、妻に先立たれた後の夫の平均寿命は3年。対照的に夫が先に逝った妻は平均15年だとか。男は伴侶を失うと、生きる気力が萎える傾向がある。
野村は09年の楽天退団後、10年からスポーツ新聞で評論活動に戻った。テレビのスポーツ番組に出演、バラエティー番組でも活躍した。
だが14年秋から15年春にかけて、解離性大動脈瘤の手術を2度受けた。
89年、ヤクルト監督に就任した直後に心臓疾患で入院して船出が危ぶまれた。楽天監督時代の08年にも体調不良で入院、さらに10年には解離性大動脈瘤のため緊急入院。心臓に不安を抱えていた。
沙知代の死が老いに拍車をかけた。急に元気がなくなった。車イスを使うことが増えた。
野村は沙知代の死から2年2カ月後、愛する妻の元へと旅立った。
プロ野球界を中心に悼む声が続々と寄せられた。野村が「ヒマワリ」とたとえた長嶋茂雄は、同級生の訃報にこうコメントした。
「驚いた。テレビのニュース速報で訃報を知ったが、一瞬、言葉を失った。なぜならノムさんとは3週間前に行われた『金田さんのお別れの会』で顔を合わせたばかりだったから」
同年1月20日、400勝投手・金田正一のお別れの会が都内で行われた。2人はガッチリ握手をすると、最後の会話を交わした。
野村が「おい、頑張っているか。オレはまだ生きてるぞ。まだまだ頑張るぞ」と話しかけると、長嶋は「おお、ノム。元気そうだねえ。お互い頑張ろう」と応じた。
「また大切な野球人を失ってしまった。しかし、ノムさんが遺した偉大な功績と野球への底知れぬ愛は、これからも永遠に生き続けるはずだ」
ヤクルト、巨人それぞれの監督として対戦した90年代は激しいバトルを繰り広げた。死球を巡る遺恨もあって、当時は常に一触即発だった。
94年には死球から大乱闘事件を起こして、危険球のルールが改訂された。
だが、2人の根底にはお互いへの尊敬の念があった。ライバルでもあり盟友でもあったのだ。
長嶋は「今後は天国からしっかりと、野球界を見守ってほしい」と結んだ。
野村は南海のテスト生から強打の捕手として台頭し、65年には戦後初の三冠王。監督として5度の優勝、3度の日本一に輝いた。1565の勝ち星は歴代5位だ。
「生涯一捕手」は代名詞だった。「ID(インポート・データ)野球」を駆使して幾多の革新を成し遂げた。
その野村は数多くの名言も遺した。
「先入観は罪、固定観念は悪」
「失敗と書いて成長と読む」
「言い訳は進歩の敵」
「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」
「人間的成長なくして技術的進歩なし」
「心が変われば人生が変わる」
「金を失うは小なり、名誉を失うのは大なり、勇気を失うは全てを失うなり」
ごく一部だが、中でも大事にしたのが次の中国のことわざである。
「財を遺すは下、仕事を遺すは中、人を遺すは上とする」
野村は没後4年半を経ても、プロ野球界に影響力を持っている。多くの人材を育成して遺した。大きな功績である。
古田敦也、高津臣吾、真中満、矢野燿大、渡辺久信、辻発彦、石井一久、稲葉篤紀、栗山英樹、新庄剛志、吉井理人‥‥野村の薫陶を受け、指導者として活躍している野球人は多い。
今、野村チルドレンは球界を席捲し、「野村の考え」を伝えている。
「野村語録」を中心とした数多くの著書はいまだに人気を誇る。野球理論や評論のみならず、時には吉川英治、夏目漱石らの名言を引いて仕事と人生を語った。
サラリーマンは処世術を学び、学生には将来の指針となった。幅広い世代で支持されている「ビジネス書」でもある。
野球論はそのまま人生論でもあった。
月見草は土にかえっても今なお人々の心の中で生き続けている。
(敬称略)
猪狩雷太(いかり・らいた)スポーツライター。スポーツ紙のプロ野球担当記者、デスクなどを通して約40年、取材と執筆に携わる。野球界の裏側を描いた著書あり。