「ガンになってから自炊をするようになりました。今日はパンケーキを作りたくて、材料を買おうと思ったけど、雨が降りそうだからどうしようかな」。そう穏やかな表情で話すのは、俳優の小倉蒼蛙氏(72)。23年に「小倉一郎」から改名したきっかけは、22年3月に発覚したステージ4の肺ガン。「生まれ変わった感覚だから」だと言う。
─ガンが発覚する前兆みたいなものはありました?
きっかけは背中の激痛でした。その前に骨折をしてしまい、同じような外的な痛みだと思って痛み止めを貼ったんですけど、治らない。これはおかしいと総合病院に行って精密検査を受けたら「どの治療でも完治は見込めません。余命は1〜2年です」と言われたんです。もう何をやってもダメなんだと認識しましたね。ドラマ「今度生まれたら」(22年、NHK BS)の撮影中のことでした。
─撮影中に余命宣告?
はい。毎日とにかく背中全体が痛くて、自分の撮影がない時は誰にも見えない場所でグッタリしていましたね。その痛みは食事ができないほどで、体重も55キロから44キロまで一気に減りました。誰がどう見ても「どうしたの?」と聞かれると思ったから、監督とプロデューサーにだけは、ガンであることを伝えました。
─ご家族はどう思われていたのでしょう。
娘の計らいで、がんセンターへの転院が決まったんですけど、そのタイミングで妻と子供たち、そして元妻の総勢15人で熱海旅行に行きました。來宮神社で息子が「御神木の周囲を1周すると寿命が1年延びるらしい」ということで、みんなで回りましたけど、後から聞くと、子供たちは「これが最後の旅行」だと思っていたらしいです。
がんセンターでは右上の肺を原発に「骨に2カ所、リンパ節への転移」、のちの検査で「脳にも転移がある」と言われて、僕自身もいよいよダメだ、と思いましたね。
─どのような治療をされたのですか?
主治医が「ステージ4でも死ぬとはかぎりません。やれるだけのことをやりましょう!」と言ってくれて。まず、10日間の胸部への放射線治療と抗がん剤治療、脳への最先端の放射線治療「サイバーナイフ」をやりました。
─副作用は?
今も1カ月に1度続けている抗がん剤治療では、全身がかゆくなるという副作用が出ています。肌がただれて、これじゃあベッドシーンができない(笑)、というのは冗談ですが、検査や化学療法で、とにかくお金がかかりましたね。サイバーナイフはサブスク方式で64万円だし、コロナ禍で仕事が減った中でのことで貯金もそんなになくて。すっかり貧乏になっちゃった。でも、結果的には高額医療費で返ってきたんですけどね。サイバーナイフも保険が適用されて18万円くらいだったかな。
─治療の効果は?
22年の5月、胸部のレントゲン写真では、それまでとはふた回りも小さくなっていました。病院のトイレに駆け込んで、泣きながら子供たちに「治るかもしれない」とメールを送りましたよ。さらに翌月、脳の腫瘍の死滅も確認。この時、「生きたい」と気力が湧くのを実感しましたね。
─余命宣告後は、生きる気力を失われていた?
母親が僕を出産して1週間後に亡くなったり、兄姉3人も早くに亡くなりました。昔から身近で「死」を見てきたから怖くないのかもしれませんね。そういえば、余命宣告された日から一度も落ち込むようなことは考えていないかも。チラシの裏に「あれをやりたい、これをやりたい」という目標をどんどん書いていました。それが俳句やエッセイの材料になったり、私が作りたいと思っている映画のワンシーンに使えるな、とかね。だから余命宣告後、急いで俳句結社「あおがえるの会」も作ったんです。
─ガンからの生還を公表されたのは23年5月。
その頃には原発の肺ガンがビーズの粒ほどの大きさになっていました。でも再発はあると思っています。主治医にも「治ったかのように見えているだけ」と言われています。だから抗がん剤を続けているんです。
─今年5月には出演するドラマ「老害の人」(NHK BS)も放送されました。
撮影スタッフが「今度生まれたら」と同じで、当時はクランクアップの時、監督が僕に花束を渡しながら泣いているような目をしていたんです。「これで最後」と思っていたんでしょうね。その彼がまた僕を呼んでくれて。顔を合わせた日に彼が指差して「生きてるー」って。それがうれしくってね、泣けましたよ。
小倉一郎(現・蒼蛙):1951年10月29日、東京都に生まれ、幼少期は鹿児島県薩摩郡下甑島にて育つ。64年、石原裕次郎主演映画「敗れざるもの」(日活)で本格的に俳優デビュー。現在までに出演映画は150本を超え、ドラマは330本以上の日本を代表する名バイプレイヤー。俳人として多数の句集を上梓するほか、主宰する句会「あおがえるの会」を月1回開催し、季刊誌も刊行中。