ベーブ・ルースは和製ポスターをジッと見つめると「ふふふふ‥‥」と笑い始め、そして言い切った。
「OK、日本に行くよ」
1934年10月1日、貿易商であり、当時、メジャー通として有名だった鈴木惣太郎は、ニューヨークでヤンキースのルースに日本行きの確約を求めていた。
鈴木はルースが馴染みの理髪店に行く情報をつかんでいた。だが、散髪が終わると「オレは日本には行かない」と拒否した。頑なな態度だった。
鈴木はとっさに持参した和製ポスターを見せた。「日米大野球戦」と書かれ、ルースの団子鼻が目立つ大きな似顔絵が描かれていた。愛嬌があった。
これが不機嫌だったルースの琴線に触れた。笑って快諾したのだ。
この年、読売新聞社は元旦付けで1ページ全面を使った社告を打った。
〈米国大野球団招聘 世界最強・全米代表軍来る!〉
同社社長・正力松太郎は3年前の31年秋、「第1回日米野球」を開催した。
日米野球は報知新聞の記者が「ベーブ・ルースを呼んでみませんか」と提言したことから始まった。
当時、全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園)、早慶戦をはじめとする東京六大学野球が国民の人気を集め、野球人気が高まっていた。
正力は24年に読売新聞の社長に就任したが、発行部数で朝日新聞や毎日新聞の後塵を拝していた。
この頃、大リーグは最強の左打者・ルースが本塁打王として君臨し、「ルースの時代」だった。大リーグは収益を大きく伸ばし、人気スポーツNo.1になっていた。日本国内でも広く知られた人気者だった。
スーパースターのルースを呼んで自社で開催できれば、部数拡大のチャンスとなる。正力は日米野球開催を決意した。
だが、ルースは来日を見送った。長い船旅を嫌がった。当時、サンフランシスコから横浜港まで約2週間を要した。
大リーグ選抜チームは14選手が来日した。ルー・ゲーリッグら大物選手が顔を揃えた。日本チームはファン投票で27選手を選んだ。
全国各地を転戦して17試合を行い、大リーグ選抜は17勝無敗だった。それでも観客は大喜びだった。球場はどこも大入り満員で、収益も想像をはるかに超えた。
正力はルースが来日しなくても盛り上がる日本の野球人気の凄さ・関心の高さを知った。発行部数も急増していた。
「ルースを呼ぶ」
正力は最初の成功だけで満足しなかった。7月中旬には「ベーブ・ルース来る」と社告を打った。この時点で来日は未定である。そこで急ぎ、交渉役として白羽の矢を立てた、鈴木をNYに向かわせたのだった。
ルースを含むメジャー選抜軍が再来日の運びとなった。日本代表チームは、野球関係者が全国から幅広く集めた。
全国を転戦した11月7日からの「第2回日米野球」も日本の18戦全敗だった。
そんな中、11月20日、静岡県・草薙球場での第10戦は「沢村伝説」となった。
日000000000=0
米00000010×=1
京都商業の投手、17歳の沢村栄治が速球とドロップ、今でいう落差がある落ちるカーブを武器に、メジャーの強打者たちをきりきり舞いさせた。
奪った三振は9、許した安打はわずか5、そのうちの1本が7回にゲーリッグに打たれた本塁打だった。
ルースもゲーリッグも高く評価した。
「アメリカに連れて帰りたい」
沢村の名前は日本だけではなく、アメリカにも広く伝わった。
日米野球の舞台裏では全米チームの一員、捕手のモリス・バーグがスパイ活動を行っていたとされる。
この頃、日本は満州事変を起こし、満州国に皇帝・溥儀を擁立、さらに33年には国際連盟を脱退していた。アメリカとは中国を巡って緊張状態にあった。
日本の当局は全米軍の行動に神経を尖らせていたが、バーグは単独行動を取ってカメラで日本の写真を撮りまくった。
東京の中心にある聖路加病院の屋上に密かに上がり、映画用のカメラで周辺を撮影した。函館から小倉まで移動して膨大な写真を撮った。これらが後に、東京空襲や各地の爆撃に使われたというのだ。
バーグの日米野球の成績は6試合で18打数2安打、打率1割1分1厘。選抜チームに入る実力のある選手ではなかった。スパイ説の有力な根拠の1つだ。
全米選抜軍はどこへ行っても日本のファンから大歓迎を受けた。特にルースは人々の注目を集めた。「ルースの大会」と言ってよかった。
ファンサービスにも努めた。小倉での第15戦は、強い雨が降る中での試合となった。ルースは和傘をさして外野の守備位置についた。観衆がドッと沸き大声援を送った。
1895年2月生まれのルースが来日したのは39歳8カ月という現役最晩年の頃だったが、全18試合に出場して76打数31安打で打率4割8厘、13本塁打、33打点の好成績を残した。
大会は大盛況で終わった。前回をしのぐ人気だった。純益も大きかった。
ルース人気がプロ野球誕生の引き金となった。正力は34年にこの時の全日本軍を主体として初のプロ球団「大日本東京野球倶楽部」(現在の巨人)を創設し、36年には「日本職業野球連盟」へと導いた。
正力は卓越した先見の明で、日本のプロ野球の発展に貢献して「プロ野球の父」と呼ばれる。
だが、ルースを日本に呼んだ和製ポスターが、誕生から90年を迎えた今日の日本プロ野球隆盛の「陰の主役」と言っていいかもしれない。
ルースは22年間の現役生活で714本塁打を放ち、投手としても20勝を2回マークしている。言うまでもなく、大谷翔平で話題となった二刀流の本家本元であり、いまだに大リーグが生んだ最高のスターである。
(敬称略)
猪狩雷太(いかり・らいた)スポーツライター。スポーツ紙のプロ野球担当記者、デスクなどを通して約40年、取材と執筆に携わる。野球界の裏側を描いた著書あり。