東映(現日本ハム)の4番・大杉勝男がロッテの左腕・佐藤政夫に1ボール2ストライクと追い込まれていた。4球目は真っすぐ。「あの月に向かって打て」の名文句で知られる大杉は迷わずフルスイングした。打球はライナーで左翼席に伸びて行った─。
1971年5月3日、東京球場で行われたロッテ対東映の5回戦で世界記録が生まれた。5者連続本塁打である。
東0000100058=14
ロ0003010202=8
この試合、東映は敗色濃厚だった。8回を終わって5点差である。しかも9連敗と長いトンネルに入っていた。断トツの最下位だ。
9回表、1死から大杉が本塁打を放ったが次打者はアウトとなり2死走者なし。10連敗は目前となった。
だが、「野球は2死から」だ。
池田重喜が突如、制球を乱した。安打と四球で一、二塁、濃人渉監督は八木沢荘六をマウンドに送った。
代打・末永吉幸は平凡な遊ゴロ、遊―二と渡って二塁の審判は右手を上げた。ゲームセットのはず‥‥その時、二塁の山崎裕之のグラブからボールが落ちた。
東映の田宮謙次郎監督が丸い巨体を揺すって二塁にダッシュして猛抗議をした。判定はセーフに覆って、試合は2死満塁で再開となる。試合の流れも変わった。
代打の今井務が2点タイムリー、1番・大下剛史が中前打、大橋穣の遊ゴロ野選と失策で同点とし、延長戦に突入した。
10回表、東映は2死一塁から安打と敬遠四球で満塁のチャンスを築いた。
田宮監督は投手・皆川康夫の代打にこの年無安打の作道烝を送った。総力戦でベンチに手駒が少なかった。
しかし作道は佐藤元彦の変化球を鮮やかに捉えた。打球は左中間スタンドに飛び込む、代打勝ち越し満塁本塁打となった。
これは第1幕。怒涛の第2幕が始まった。
続く大下が左翼席へ、大橋もまた同じ左翼席へと本塁打を運んだ。3番の張本勲が打席に立った。投手は佐藤元から佐藤政に替わっていた。
張本はここまで無安打だったが、真っすぐを流し打った。打球は左翼席で弾んだ。最後は主砲・大杉がきっちり締めた。
作道 カーブをジャストミートしたが、まさか本塁打になるとは‥‥。
大下 別に狙わなかった。
大橋 アウトになってもともと。思い切って振った。
張本が「やけくそでどうにでもなれと振り回した」と言えば、大杉は「狙っていた」と振り返った。
田宮監督は「今日はタバコ、酒が一番うまい日になるよ」と高笑いだった。
86年、西武が1イニング6本塁打を記録しているが、5連発の記録は破られていない。また、メジャーの歴史でもない。
東映は個性あふれる面々が揃っていた。本拠地が世田谷区の駒沢にあったことで「駒沢の暴れん坊」と呼ばれた。
張本は浪商時代から数々の武勇伝を持ち、コワモテ選手の代表格だ。阪急(現オリックス)のダリル・スペンサーをバットで追いかけたこともある。
大杉は怒らせると怖い最強のファイターだ。70年、西鉄戦でカール・ボレスとクロスプレーを巡って乱闘となったが、大杉が強烈な右フックで一発KOした。
韓国から初の日本球界入りをした白仁天は、ボクシング出身の露崎元弥審判と渡り合うほど気性が荒かった。
俊足の名二塁手・大下は隠し球の名人。現役時代から気が強く、広島のコーチ時代は鉄拳制裁辞さずの指導で知られた。毒島章一は「三塁打王」の異名を取った。
もともと東映は、2度の無期限出場停止処分を食らった「ケンカ八郎」こと山本八郎、頑固おやじ的な言動で人気があった土橋正幸と「暴れん坊」のイメージが脈々と受け継がれていた。
それに何と言っても親会社は東映である。ナインを見ていると「任俠やくざ映画」の世界をどうしても思い起こす。
やくざ映画の始まりは63年、鶴田浩二が主演した「人生劇場 飛車角」とされている。東映は時代劇から任俠やくざ映画へ方向を転換した。この路線は爆発的に当たり、72年まで235本が製作された。
だが71年当時、この路線は行き詰まっていた。すでに10年近くが経っておりマンネリ化していた。
テレビ放映に押されて映画不況の時代だった。69年に発覚した「黒い霧事件」も尾を引いていた。
「永田ラッパ」こと大映の社長・永田雅一は大毎のオーナーだったが、金策に追われるようになり69 年にロッテと提携し、同時にロッテ・オリオンズと名乗った。
だが71年1月25日をもって、永田率いる大映は球団経営から完全撤退、ロッテが正式に買収した。
東映も71年秋、任俠映画の名花・藤純子が尾上菊五郎と婚約し、翌72年の「純子引退記念映画 関東緋桜一家」の大ヒットを最後にスクリーンから去った。
この映画を境に観客の足は任俠やくざ映画から遠のき、振るわなくなった。
72年オフ、東映がついに野球界から撤退した。譲渡先は不動産ブームで財をなした日拓ホームだった。
プロ野球の球団を経営する会社はその時代を反映する。松竹、大映、そして最後の砦が退場して1つの時代が終わった。
5者連続本塁打は東映の「暴れん坊」たちが球団の最終期に残した派手な〝世界遺産〟だった。
その後、映画会社・東映は新たな金脈を発掘した。73年1月13日に公開した「仁義なき戦い」が大当たりし、「任俠やくざ」から「実録路線」へと大きく舵を切った。
(敬称略)
猪狩雷太(いかり・らいた)スポーツライター。スポーツ紙のプロ野球担当記者、デスクなどを通して約40年、取材と執筆に携わる。野球界の裏側を描いた著書あり。