1987年8月9日、とんでもないことをやった18歳11カ月の新人投手が、真夏の夜空に両手を突き上げた。
ナゴヤ球場で行われた中日対巨人19回戦。中日の高卒左腕ルーキー・近藤真一(現・真市)が1軍初登板初先発で、ノーヒットノーランの大記録を達成した。
日本プロ野球史上初の快事件である。もちろん、いまだに「第2の近藤」は出現していない。
巨000000000=0
中30003000×=6
近藤は1回、先頭打者の駒田徳広を三振に打ち取ると、テンポのいい投球リズムに乗って左腕を大きく振り続けた。
見る見るうちに「0」のイニングを築き上げていった。9回2死無走者、最後の打者・篠塚利夫(現・和典)を得意のカーブで見逃し三振に切って落とした。
MAX145キロの真っすぐと110~120キロのカーブを交え、ショーは三振で始まり三振で終わった。
新人監督の星野仙一は、満面の笑みでルーキーを出迎えた。
唯一のピンチは7回1死一、二塁、ここで原辰徳を三振に仕留める。打線は落合博満の2本の2ラン本塁打などで援護した。
試合時間はわずか2時間33分、116球で打者30人に対して許した走者は3人(2四球、1失策)、奪った三振は8回を除く毎回の13個だった。
「大変なことをやっちゃったな、という感じです。ノーヒットノーランの実感はまだ湧いていません」(近藤)
「ある程度いけると計算したが、あそこまでは‥‥。ベンチではやれ! やれ! とハッパをかけたよ。プレッシャーの中でやらないとできないものさ」(星野)
巨人の監督・王貞治は「若者らしい、けれん味のない投球だった。ウーン、完敗でした‥‥」と言葉が見つからなかった。
初物に弱い。今でも続く巨人の伝統だが、3月まで学生服を着ていた少年の引き立て役を演じてしまった。
この年は王にとって監督4年目。3年連続で優勝を逃していた。後がないシーズンだった。
巨人は開幕前の不安をよそに15試合で10勝2敗3分とスタートダッシュに成功した。追走してきたのは阿南準郎の広島、新監督の星野が率いる中日だった。巨人の独走を許さなかった。
だが、巨人は首位で前半戦を折り返した。球宴後、広島と中日は次第に落ち始めた。3位の中日には4.5ゲーム差を付けて、7日からの3連戦を迎えていた。
7日の第1戦は小松辰雄の前にわずか4安打で完封負けを喫した。3.5ゲーム差だ。
翌8日は9回まで1点リードしていた。しかし、その裏1死から代打・石井昭男の平凡な左飛を松本匡史が落球した。
これが二塁打となり、2死後に仁村徹に同点打を許して延長戦に入ると、結果は10回時間切れドローとなった。
1敗1分となった巨人は縁起直しでベンチに盛り塩と清めの酒一升をまいた。
中日はローテーションの谷間だった。スポーツ新聞各紙による中日の先発予想はほとんどが右腕・鈴木孝政だった。
一部ではひょっとしたら近藤の声もあった。それでも王は「近藤の先発はないと思うよ。失敗したら潰れてしまう公算が大きいからね」と話していた。事実、左打者を5人並べた。
ところが、闘将はゴールデンルーキーを指名した。400勝投手・金田正一と同じ愛知・享栄高出身で、中日は前年秋のドラフトで5球団1位競合の末に獲得していた。
1年前の8月9日、近藤は甲子園の佐賀・唐津西戦で15奪三振、1安打完封勝利を挙げて、母校を38年ぶりの夏の勝利に導いていた。
評論家だった星野はこの試合を観戦していた。近藤ならやれる。決断は揺るがず、巨人が清めの酒と塩に求めた御利益まで消し飛ばした。
同年から中日を率いた40歳、星野は2年連続5位のチームを鉄拳制裁辞さずで立て直そうとした。そのための目標はただ1つ。「打倒巨人」である。
6月11日、熊本・藤崎台球場での巨人対中日戦で大乱闘事件が起こった。
宮下昌己から死球を受け激高したウォーレン・クロマティが殴ったことから始まったのだが、星野は乱闘の輪の中で世界の王の胸倉をつかんでいる。
「星野は王に負けていないぞ」とファンと選手にアピールするのが狙いだった。パフォーマンスで巨人を徹底的に利用しようとしたのだ。
3位・中日に2.5ゲーム差まで迫られた巨人だったが、「近藤ショック」を引きずらず、以後はそのままエンジン全開で走った。
篠塚が首位打者となり、中畑清、原、クロマティの主軸が3割を打ち、6年目の吉村は看板打者に成長した。鹿取義隆、角三男(現・盈男)、ルイス・サンチェの救援トリオで勝ちパターンをしっかり作って勝ち星を重ねた。
王は監督就任4年目にして、悲願のリーグ優勝を果たした。星野中日は巨人に8ゲーム差を付けられての2位だった。
87年は後楽園球場最後のシーズンとなった。翌88年は東京ドーム元年。巨人の記念すべき年に星野は中日を優勝に導き、巨人は2位に甘んじた。王は巨人のユニホームを脱いだ。
ルーキーイヤーの近藤は、9月30日の巨人戦において4安打完封で4勝目を挙げた。5敗で負け越したが、3完封と、将来のエースとして期待される成績を残した。
88年は球宴までに7勝したものの、その後は肩を故障して、通算12勝17敗の成績を残し94年限りで現役を引退した。
だが、あの熱帯夜に輝いた勝ち星は、今なお野球ファンの間で語り継がれている。
(敬称略)
猪狩雷太(いかり・らいた)スポーツライター。スポーツ紙のプロ野球担当記者、デスクなどを通して約40年、取材と執筆に携わる。野球界の裏側を描いた著書あり。