生涯57度の合戦に参加し、一度も手傷を負わなかった武将といえば、徳川家康の家臣・本多平八郎忠勝だ。その本多忠勝を「カス」呼ばわりした人物がいる。「弓矢の腕では並ぶ者なし」と言われ「軍神四郎左兵衛門」と畏敬された内藤正成である。
正成は享禄元年(1528年)、徳川家康の祖父・松平清康とその子・広忠に仕えた内藤義清の弟・内藤忠郷の次男として生まれた。幼名は「四郎左衛門」という。
最初は叔父・内藤義清に仕えたが、家康の父・松平広忠に弓矢の力を買われ、広忠の死後は家康の近侍として仕えた。16歳の時に小豆坂の戦いに参加して織田軍を矢継ぎ早に攻撃し、200人以上を死傷させている。
正成の弓矢に関しては、こんな逸話が残っている。永禄6年(1563年)の牛窪合戦では「正成が最後尾を務め、進んでくる敵を射た。その矢が鞍の前輪から後ろまで抜けたので、敵兵は恐れをなして進むことができずに退いた」という。
その正成が本多忠勝を「カス」認定したのは、天正3年(1575年)6月のことだ。家康が遠江国の二俣城を攻めた。正成も出陣する予定だったが、直前に足をケガしてしまい、浜松城の守りを任せられた。従軍できない正成は気合を入れて、浜松城を死守しようとした。
家康軍は出陣したが、途中で風雨が激しくなり、急きょ夜中に浜松城に引き返すことになった。この時、家康とともに出陣していた本多忠勝は「一刻も早く城門を開けるように」と家臣を走らせたが、城門は開かない。夜中に戻ってくることを怪しんだ正成が内側で仁王立ちし、城門の鍵を開けなかったからである。
忠勝は風雨の中、家康を待たせるわけにはいかず、自ら城門に行き「殿が帰ってきたから城門を開けろ!」と激しく門を叩いた。
ところが正成は納得しない。それどころか「この暗夜に誰が殿のお帰りなどと偽っているのか。そこの『カス』を撃ち殺せ」と火縄銃を構えたのである。
さすがの忠勝もどうすることもできず、結局は家康自らが直々に城門まで行って正成を説得。城門は開いたという。
「戦国時代最強の武将」と呼ばれる本多忠勝を一蹴したのは、あとにも先にも正成だけである。
(道嶋慶)