空前の猫ブームが収まる気配はまだまだ見えないが、今や「かわいい猫」の写真や映像は巷に溢れている。
例えばどんなに見た目がブーな猫でも、人に懐き、寄り添う姿にホッコリし、思わず抱っこし、体中を撫でてやりたくなるものだが、全て「かわいい」のひと言で片づけてしまうことに違和感がある向きは多いと思う。
ずっとそう思い続けてモヤモヤしていたが、最近になって、あることに気が付いた。猫の「かわいい」には、いくつかパターンがあるのではないか。そこで我が家の猫を例に、「かわいい」の活用形を考えてみた。
末っ子、2歳半の黒猫そうせきは、やんちゃにさらに磨きがかかり、明け方になると目が爛々と輝く。階段を何度も駆け上ったり降りたりし、物を倒し、蹴散らす。目が覚めて「コラッ」と大きな声をあげることもしばしばだ。なぜ、ギャーギャー鳴いているのかと思い、2階から見下ろすと、そうせきは階下から見上げて何かを訴えている。それはもっと「遊んで!」だったり「ひとりは寂しいから来て」だったり。そんな時の表情は必死で、切ない感じがして憎めなくなる。
それで「わかった、わかった」と近づくと、今度はなぜか逃げようとする。それでもつかまえて抱っこすると、幼い声で「ニー」と鳴き、満足してグーグー音をさせ、そっと目を閉じたりする。そんな時は駆けっこをしている時のやんちゃさが消え、穏やかな表情になっている。母親に甘えたくて悪さをする小さな子供のようで、かわいげがある。「かわいい」の活用形のひとつは「かわいげがある」だ。
真ん中のクールボーイは「かわいい」ならぬ、「かわいそうになる」。人が怖くて、近づくと逃げる。そっと近づいて、距離が縮まりすぎると、得意の「シャー」をして恐怖心を露わにする。
そんなクールボーイは、お腹がすくと豹変する。飼い主のところまでやってきて、ジッとこちらを見ている。知らんぷりしていると、そのうち口を尖らせ、「ミー」と抗議する。「腹減ったから、メシ早く食わせろよ」と言っているようだ。
クールボーイはトイレのマナーもなっていない。猫はスッキリした後に砂を被せて隠す習性がある。ところがコロンとした5つか6つの塊を始末せず、そのままにしてトイレを出る。こういう猫は「お前ら、俺のをちゃんと片づけておけ」と威張っているのだそうだ。
「ごはんを食べたい」「トイレが終わったので、片付けお願いします」と素直なら、そうせきのようにかわいげがあるのに。クールボーイはそれが性格的にできないらしい。性格だから仕方がないのだが、飼い主としては情けないというか、「かわいそうになる」というのが正直な気持ちだ。
いちばん上のガトーは飼い主だけでなく、宅配のお兄さん、ヤクルトのおばさんなど、誰にでも懐く。玄関まで行って三和土にゴロンと横になり、「触って」「撫でて」と催促するのだ。お兄さんもおばさんも、思わず猫にスリスリしている。
ガトーはちゅ~るのおねだりを日課にしていて、これにきちんと応えてあげないと怒り出す。食べた後も頭を撫でながら「おいしかった?」と構ってやらないと不満そうだ。つまり、かわいがってあげないと納得しない猫なのだ。ガトーにとっての「かわいい」の活用形は「かわいがってもらう」である。
死んだジュテは生きている3匹の猫と比べると、大人だった。飼い主が考えていることがわかってイエス、ノーをはっきり意思表示する。「わかったよ」「でも、それはいやだよ」と言われている気分になることがよくあった。それもニッコリと頷くようにしながら。愛嬌がある、物わかりがいい、かわいらしい猫だった。ジュテの場合、「かわいい」は「かわいらしい」だ。
かわいいげがある、かわいそうになる、かわいがってもらう、かわいらしい…これが「かわいい」の4パターン。猫の「かわいい」にはもっと異なるニュアンスがあるかもしれないが、我が家の場合、この4つに分類できる。
ちなみに「猫かわいがり」という言葉があるが、人間が猫を溺愛する様なので、猫が「かわいい」の活用形にはならない。
(峯田淳/コラムニスト)