大谷翔平が大リーグの記録を次々と塗り替えた、2024年から時計の針を巻き戻すこと55年。日本球界に前人未踏の大記録が生まれた。金田正一の400勝達成だ。
1969年10月10日、巨人対中日24回戦(後楽園球場)
中 0 0 1 0 0 1 0 0 0=2
巨 1 2 0 0 0 0 1 3 ×=7
巨人の先発は城之内邦雄。3対1とリードしていた5回から、400勝目前だった金田が登板した。
5回を3人で片づけた。6回、1死を取ったところで一発を浴びて1点差となったが、7、8回としのいだ。
9回、マウンドに立った金田の顔は青かった。2死を取り、最後の打者、島谷金二の打球は二塁・土井正三が処理し、一塁・王貞治のミットに収まった。
金田は両手をヒザに落とし、あふれそうな涙を必死でこらえた。長嶋茂雄、王、土井、藤田元司らナインやコーチが駆け寄った。
「おめでとう、さあ、いこう」
マウンド付近で6〜7度舞った。お立ち台に上がった。「うれしいです」と絶句した。男泣きしていた。「インタビューはちょっとやめてくれ」と台を降りると、ダッグアウト裏のマッサージ室に閉じこもった。
気持ちを落ち着かせて出てくるまで、長い時間がかかった。
「城之内が勝利投手を諦めてくれた。本当にワシは幸せもんだ。400勝したらマウンドでバンザイか、逆立ちしようかと考えた。みんな助けてくれ、喜んでくれた。嬉しくて、何もできなかった」
50年8月6日、愛知県・享栄商の3年生エースだった金田は学校側の制止を振り切って中退し、国鉄(現ヤクルト)入りした。監督の西垣徳雄から誘われていた。契約金50万円、年俸2万5000円。
同年8月23日、弱冠17歳の金田は松山球場の広島11回戦でデビューし、わずか2カ月あまりで8勝した。
51年の2年目から14年連続「20勝以上」「200奪三振以上」「300イニング以上」は驚異としか言いようがなく、今後も破られることはないだろう。
本人いわく「160キロは出ていた」という剛速球を長身から操り、軌道の違いによる5種類のカーブがあった。特に「2階から落ちる」と言われた縦のカーブを武器にした。
金田は圧倒的な実力から国鉄では「天皇」と呼ばれ、監督以上の権力を持っていた。
特に巨人、長嶋に闘志を燃やした。58年4月5日の開幕戦(後楽園)では、デビュー戦の長嶋から4打席連続三振を奪って〝学生扱い〞した。
巨人は3位に終わった64年、大胆な補強策に出た。川上哲治監督が望んだのは、国鉄ですでに通算353勝を挙げていた大エース・金田の獲得だった。
金田もまた身売りが決まっていた国鉄に嫌気が差し、「10年選手制度」による移籍を考えていた。
「ONをバックに投げたい」
意中の球団は巨人だ。川上の熱意も知っていた。
10年選手制度は現在のFA制度の前身で、同一球団で10年以上在籍したA級選手には残留してボーナスを得るか、自由に移籍する権利が与えられていた。
さらに3年後にはB級選手として移籍権を再取得できた。59年にすでにA級としてボーナスを貰っていた金田は当時、B級だった。
両者の思惑が一致していた。巨人と金田は最初の交渉で合意に達した。
「念願がかなってホッとした。これからは過去を忘れ、新人・金田として巨人に溶け込みたい。わがままを言わず頑張る」
厳しい鍛錬で自らを追い込む姿勢、それだけではなく食事や体調管理などに至るまで、巨人ナインの模範となった。
巨人のV9は金田の移籍1年目の65年から始まった。開幕戦で勝ち星を挙げ、南海(現ソフトバンク)との日本シリーズ第1戦でも勝利投手となった。
史上最高の投手は、時にトラブルメーカーとなった。その〝らしい〞試合が完全試合を達成した国鉄時代の57年8月21日、中日球場での中日17回戦だった。
国 0 0 0 0 0 0 0 0 1=1
中 0 0 0 0 0 0 0 0 0=0
国鉄・金田、中日・杉下茂のエース対決は予想通り投手戦となった。金田は8回まで走者を1人も許していない。
国鉄は9回表、ついに1点を先制した。中日はその裏、先頭打者は代打の酒井敏明だ。カウント1–2からの4球目をハーフスイング気味に見送った。
主審の稲田茂は空振りと判断し、「ストライクアウト」と宣告した。
中日の監督・天知俊一が激怒して、審判に抗議した。興奮したファンがなだれ込み、稲田は殴られた。騒乱状態に、警官隊が動員される大騒ぎとなった。
一時は放棄試合になりかけたが、40分後に再開となった。金田は怒っていた。
「ワシの故郷(愛知県)だというのに、そんなにワシが嫌いか。ワシの記録にケチをつけたいのか!」
マウンドに上がった金田は鬼の形相だった。牧野茂、太田文高の2人をすべてストレートで3球三振に切って落とし、堂々と完全試合を達成した。
金田は69年11月30日に引退を表明した。この年の阪急(現オリックス)との日本シリーズ第4戦で7回、城之内をリリーフしてわずか6球でKOされて引退を決断した。会見で金田は「感謝の気持ちで引退します。ありがとうございました」と神妙に頭を下げた。
通算成績は20年間で944試合に登板し400勝298敗、56年から3年連続で沢村賞を受賞するなど、数多くのタイトルに輝いた。「記録男」と呼ばれた。
金田は巨人在籍5年間で47勝した。晩年は少し寂しい成績だったが、最大の功績は巨人V9の礎を作ったことであろう。
(敬称略)
猪狩雷太(いかり・らいた)スポーツライター。スポーツ紙のプロ野球担当記者、デスクなどを通して約40年、取材と執筆に携わる。野球界の裏側を描いた著書あり。