「巨人 VS 広島」セ・リーグ公式戦・1996年7月9日
「メークドラマ」とは、元巨人監督・長嶋茂雄の造語だ。ミスターは野村克也率いるヤクルトが優勝した1995年から、選手たちを鼓舞するために使い始めた。
この言葉が「流行語大賞」の年間大賞に選出されたのが翌96年である。
このシーズン、中盤までの主役は広島だった。巨人には最大11.5ゲーム差をつけ、首位を独走していた。
7月9日、札幌・円山球場。この時点での巨人とのゲーム差は11。広島は紀藤真琴、巨人は斎藤雅樹、両エースの先発で試合は始まった。
天候は生憎の雨。斎藤は「雨男」と呼ばれていた。
試合が大きく動いたのは、0対1で迎えた巨人2回裏の攻撃。2死から7番・後藤孝志がレフト線を破るツーベースを放ち、8番・村田真一のレフト前ヒットで追い付いた。
さらには9番・斎藤が一、二塁間を破り、1番・仁志敏久がセンター前に弾き返す。2死満塁で2番・川相昌弘は泳ぎながらもスライダーをレフトスタンドに叩き込んだ。
1対5と逆転されながらも広島・三村敏之監督は紀藤を代えない。3番・松井秀喜の一塁へのゴロはイレギュラーヒットとなり、4番・落合博満がセンターオーバーのツーベース、5番シェーン・マックがセンター前ヒット。左の6番・清水隆行を迎えたところで、広島は左の前間卓にスイッチしたが、ライト前ヒット。巨人はプロ野球タイ記録(当時)となる9連打で、この回、一挙7点を奪った。
広島も反撃し、巨人の3人のピッチャーから8点を奪ったものの、2回裏の7点のダメージは大きく、8対10で敗れた。
9連打で打撃戦を制した巨人は、この後勢いに乗り、最大11.5ゲーム差をはね返して、リーグ優勝を果たしたのである。
「皆さん『あの年は優勝が見えていたでしょう』と言うけど、全然そんなことはない。まだ2カ月残っていましたから。追われるウチより、追う巨人の方が精神的には楽だったのでは」
メークドラマの舞台裏を紀藤は、こう振り返る。
「僕はあの試合までに9勝をあげていたけど、コンディションはよくなかった。腰の痛みが徐々に増してきて、3イニングに1度の割り合いで痛み止めのボルタレンを飲んでいました」
腰の痛みは、ピッチングにも影響を及ぼした。
「勤続疲労で腰が回り切らないため、引っかかったり抜けたりするボールが増えてきた。どうしても腰をかばって投げるため、ヒジや肩にも影響が出てきた。ベンチに戻っても痛みで座れず、ヒザを曲げたり寝そべったりしていた程です」
ある日、意を決して紀藤は三村に言った。
「登録を抹消してくれませんか?」
一度、出場選手登録を抹消されると10日間を過ぎるまでは再登録できない。紀藤はこの期間を利用して体を休めようと考えたのだ。
「それは無理だ」
当時の広島は〝投高打低〞。チーム事情がエースの戦線離脱を許さなかった。
故障者続きの広島と豊富な戦力を誇る巨人との〝体力差〞は、シーズンも終盤に入ると徐々に顕著になり、結果的に広島は、長嶋巨人のメークドラマの引き立て役を余儀なくされた。
時代劇同様、プロ野球でも〝斬られ役〞がよくなければ、ドラマは成立しない。まさに広島はグッドルーザーだった。
二宮清純(にのみや・せいじゅん)1960年、愛媛県生まれ。フリーのスポーツジャーナリストとしてオリンピック、サッカーW杯、メジャーリーグ、ボクシングなど国内外で幅広い取材活動を展開。最新刊に「森保一の決める技法」。