線が細いからこそ、芯の強さが引き立つ。そしてあんなに悲しい笑顔を見せられる役者はもう現れないだろう。そう思わせたのが、甲状腺機能低下症で亡くなっていたことが公表された、いしだあゆみだ。享年76だった。
彼女は歌手デビュー後、1968年発売の「ブルー・ライト・ヨコハマ」が100万枚の大ヒット。その後の女優としての活躍は、今さら説明するまでもないだろう。
そんな彼女がドラマを通じて知り合い、山崎努夫妻の媒酌により、東京・芝にあるレストラン「クレッセント」で結婚したのが、ショーケンこと萩原健一だった。
萩原はモデルの小泉十三と離婚して間もなくの再婚で、1歳上である彼女の姉さん女房ぶりが、当時はよく芸能マスコミで話題になったものである。
ところが1983年5月、萩原が大麻事件で逮捕され、夫婦の危機説が囁かれるようになる。しかし記者会見に臨んだ彼女は、
「みなさんは厳しく罰しても、私だけは彼を許してあげたい」
そう涙ながらに語り、ショーケンをかばった。
60日近い勾留の末に釈放された萩原は、2人の愛の巣である東京・代々木の自宅マンションを出て、京都の寺で修業。その後は北海道の牧場で生活するなど、夫婦の溝はさらに広がることになった。
そして謹慎期間中の酒気帯び運転がダメ押しとなり、妻は離婚を決意。3月17日午後9時過ぎからフジテレビで離婚会見に臨むことになったのである。当時、彼女は36歳。萩原は34歳だった。筆者の取材メモにはこんな文字が残っている。
〈報道陣は約150人。地味なセーター。悲しい笑顔。外された結婚指輪…。「(結婚生活に)疲れてはいないんですけど、自信がなくなりました。私のほうから別れようといいました」「『ショーケンと結婚するんだから(苦労させられるよ)』と言われました。でもその分、彼にはチャーミングなところがありましたから」「私がいるとショーケンがつまらなくなると感じた」「彼の妻として、良妻でも悪妻でもなく、愚妻でしかなかったな、と思います」〉
そしてショーケンについては、こんな名セリフを残した。
「大恋愛で結婚した人です。もう一度、惚れさせてもらいたい。未練というのではなく、今でも情は残っています」
「いつまでも不良でいいと思うんです。法を犯すというのはむろんいけませんけど、(これからも)真面目に不良をやってほしい」
「赤ちゃんがいれば、きっと彼は変わっていたと思います」
交通事故後の記者会見で萩原はこう語っている。
「家内は私にとって姉であり、妹であり、母でもあります」
ショーケンにとって彼女は、妻ではなく、そばにいてくれるだけの存在だったのだろうか。取材メモの最後にはこんな走り書きが残されていた。
〈こんなに悲しみに満ちた笑顔が似合う女優はいない!〉
(山川敦司)
1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。