トランプが肝いりで乗り出しているウクライナ=ロシアの停戦仲介で、米国側のキーマンにスティーブ・ウィトコフ特使がいる。トランプの古くからの友人の不動産業者だが、ロシア系ユダヤ人ということでトランプに中東特使に任命された。そこで彼はイスラエルとハマスの人質解放交渉などに関与していたが、今はウクライナ戦争の停戦仲介まで深く関与するようになっている。そんなウィトコフ特使だが、3月21日、ネット番組のインタビューで驚くべき発言をした。
「(ロシア軍が占領している地域では)圧倒的多数の人々がロシアの統治下に入りたいと意思表示した」
「今後の焦点は、世界がこれらの地域をロシアの領土として認めるかどうかだ」
誤認識も甚だしい。これはかつてロシアが強引に現地で住民投票を行ったことを指しているが、ロシア軍がかたちだけそう見せただけの完全な“ヤラセ”であり、ロシア側が宣伝する偽情報そのものである。ロシア軍占領地の人々もウクライナ人であり、彼らから見れば、ロシアは侵略者だ。
ウィトコフは外交経験皆無の不動産業者であり、ロシアのウクライナ侵攻に関する知識がまったくない人物(インタビュー中は、ロシアが侵攻しているウクライナ4州の名称も答えられず)だが、ロシア側との接触でそんな偽情報を信じ込まされたのだ。ただし、トランプは米政府の専門家より友達のウィトコフの話を聞く。ウィトコフがそう認識しているということは、トランプもそう考えていると見ていい。ロシアの情報工作が、トランプの親友の不動産業者を経由してホワイトハウスに浸透しているという構図である。
本来、中東特使だったウィトコフがそもそもロシアと接近した背景には、ある人物の工作があった。ロシア政府系投資ファンドである「ロシア直接投資基金」のキリル・ドミトリエフ代表である。ドミトリエフは投資ビジネスでサウジアラビア当局に強い影響力を持つ人物で、その関係で中東特使になったウィトコフと接触。最初は米露の囚人交換の話を持ち掛けてモスクワに招待した。ウィトコフとすれば、ロシア政府の当局者から何らかの提案があるものと考えていたが、いきなりプーチンとの直接会談がセットされ、3時間半も話し込んだ。そこでゼレンスキーの悪口を吹き込まれ、そのままトランプに伝える。トランプが「ゼレンスキーは独裁者」「支持率は4%しかない」などと誤認識を主張するのはその直後である。
その後、ドミトリエフはプーチン政権の正式な対外投資・経済協力担当の大統領特別代表に就任。サウジアラビアでの第1回米露交渉の代表団にも加わった。ロシアは停戦仲介に前のめりなトランプ政権をうまく乗せてあしらっているが、その中心的人物が、プーチンの裏の代理人ともいえるドミトリエフなのだ。
彼は75年にウクライナのキーウで生まれた。現在49歳である。子供の頃から秀才で、まだソ連だった時代に14歳で奨学金付き交換留学で渡米。そのままスタンフォード大学(経済学専攻)とハーバード大学ビジネススクールをどちらも首席で卒業。ゴールドマン・サックスとマッキンゼーで働いたが、25歳でロシアの大手投資会社に転職。そのままロシアの有力な投資企業数社の幹部や経営者を経験し、瞬く間に業界の大物にのし上がった。10年にはダボス会議で若手グローバルリーダーにも選ばれている。
11年、ロシア政府系「ロシア直接投資基金」代表に就任。プーチン政権の投資政策を指揮する立場になった。当時36歳という若さだった。なお、彼の妻はプーチンの次女の親友という関係で、ドミトリエフ夫妻はプーチン家の身内同然の扱いを受けているという背景もある。
そんなことから、彼はプーチンの信頼が非常に厚く、米国のエリート層に友人・知人が多いこともあって、対米工作に乗り出していく。たとえば17年1月に始動した第1期のトランプ政権では、政権とロシア当局の不正な関係の疑惑が「ロシア・ゲート」として問題化したが、当時、すでにその工作に関与したとしてドミトリエフの名前は上がっていた。
また、第1期トランプ政権で外交問題を牛耳ったのは、トランプの娘婿である不動産業者のジャレッド・クシュナー上級顧問だったが、ドミトリエフは彼に接近し、親しい関係を築いた。ドミトリエフはクシュナー経由でロシアに有利になるよう計算されたフェイク情報をホワイトハウスに浸透させるという工作を、40歳前後だった当時から担っていたわけだ。
そして今回、前述したように、トランプ側近の素人であるウィトコフ特使に目を付けて、取り込むことに成功した。彼は情報機関に属する工作員ではなく、もっと地位の高いプーチン側近のオリガルヒだが、それこそプーチン直属の特A級の対米工作エージェントと言える特別な人物である。今後も重要な役割を務めていくことは間違いないが、オモテの肩書き的にも堂々たる王道を歩んでおり、プーチンの考え次第では、プーチン政権のオモテの重要ポストに就く可能性もある。
この2月に、前述したような経済分野の大統領特別代表になったドミトリエフは現在、米ロ間での新規の資源鉱物ビジネスを米国に売り込む工作に入っている。トランプはウクライナとの関係で利益を得るためにウクライナの鉱物資源の権益を得ることにこだわっているが、プーチンの特命を受けたドミトリエフが、「ウクライナよりもロシアのほうが鉱物資源は格段に多く、米国に大きな利益をもたらす」と盛んに米国当局者に売り込んでいるのだ。米国ファーストで目先の損得を重視するトランプへの、きわめて効果の高い工作である。
また、ドミトリエフは英BBCの取材に対し、今後は宇宙ビジネスでイーロン・マスクと協力していくつもりだと語っているが、マスクのトランプ政権での大きな存在感に目を付けた、これも対米工作だろう。ウィトコフは米露囚人交換をダシに接近されて籠絡されたが、同じ手法だ。ドミトリエフの動きには要警戒である。
黒井文太郎(くろい・ぶんたろう)1963年福島県生まれ。大学卒業後、講談社、月刊「軍事研究」特約記者、「ワールドインテリジェンス」編集長を経て軍事ジャーナリストに。近著は「工作・謀略の国際政治」(ワニブックス)