河野は1925(大正14)年、大阪府茨木市の生まれ。府立中学を出て海軍飛行練習生に志願、41年、土浦航空隊に配属される。44年より士官となり、やがて戦火拡大ととともにサイパン、テニアンと転進。飛行機乗りだった河野は九死に一生を得て復員。戦後は叔父が脚本家だった縁から映画俳優を志し、46年に東横映画に入社した。
2年後の春、京都で戦友との花見の帰り道、土浦航空隊に映画「ハワイ・マレー沖海戦」(42年、東宝)の撮影で訪れ、河野らが予科練習生として撮影協力、交流のあった藤田進と再会。藤田の薦めで、新しくできた新東宝撮影所に入ったが、55年にはやはり藤田の推薦で新しくできた日活撮影所に移籍した。以後、無数のアクション映画などに出演する一方、日活の任侠映画の刺青は、全て河野が描いた。
各社の任侠映画ブームの引き金にもなった高橋英樹の「男の紋章」シリーズ(日活)でも、高橋の背中一面に河野の描いた刺青が躍った。青春スター高橋英樹の任侠初挑戦は「平凡」など芸能誌や映画雑誌で取り上げられ反響を呼んだ。ブームに乗り次々に任侠物に主演した小林旭、「無頼」シリーズの渡哲也など、日活の任侠映画は東映と競うように作られ、河野は多忙を極めた。
「撮影所で描いたり、俳優さんの家まで出かけたり、僕の家まで来てくれた人もいる。英樹でも旭でも、僕が刺青を描くのは1回では済まないんだ。絵なんだから、4~5日で消えてしまうからね。描き直したり、手を入れたり。下絵や完成時に記録として写真を撮っておかないとつながりがわからなくなる。それで写真が多いんだ。まとめて写真集にする話もあったんだがね」
昭和を代表する演歌歌手村田英雄と北島三郎が組んだ「関東義兄弟」シリーズ(日活)も手がけたが、村田とは浅草国際劇場の舞台「人生劇場」以来の古い付き合いで、当時、刺青の肉襦袢を嫌う村田が直接河野に依頼してきた。
河野の刺青は、任侠ブームの花形だった。武者絵などから刺青の図案を勉強し、実際の彫物師から手捌きを学んだ。東映の藤純子や大映の江波杏子に対抗して、女ヤクザがブームだった頃に作られた扇ひろ子の一連の任侠映画も河野が刺青を描いた。
「扇ひろ子さんとは、家族ぐるみの長い付き合いになってね。一緒に勉強を兼ねて名だたる博徒の方の家に遊びに行ったこともある。『扇さん、誘われても賭け事は間違ってもやっちゃダメだよ。根こそぎ取られるよ』って言ってたんだが、親分に誘われて扇さん、サイコロやったんだ。案の定、10回やって8回くらい負け(笑)」
東宝が本格任侠映画に初挑戦した「出所祝い」(71年)は、仲代達矢主演で五社英雄監督の作品。日活から出向し、長期の青森ロケに付き合う。仲代ほか、田中邦衛、黒沢年雄ら主だった出演者の背に刺青を描いた。親しくなったのは安藤昇。同じ海軍の予科練の出身だと判ると、「先輩、先輩!」と声をかけられた。河野は特攻隊員として、安藤も人間魚雷の乗組員として、もう少し戦争が続いていれば出撃命令が決行される寸前だった。
五社監督は、91年に63歳で亡くなるが、無頼な生き方で知られ、その背には一面の茨木童子の刺青が彫られていた。死後、五社の生涯を追ったテレビ・ドキュメンタリーが放送されたが、河野は五社の背の刺青を10時間に及んで描き再現したこともある。その濃密な墨は、五社の修羅を生きる人生そのもののようだった。
河野が長く交流したもう一人の俳優が杉良太郎。日活撮影所以来の付き合いだが、テレビ時代劇「新五捕物帳」(日本テレビ系)など多くの杉作品にレギュラー出演、舞台ではやはり「花と龍」を演じて河野が刺青を描いた。「花と龍」といえば河野の刺青という間柄で、テレビで渡哲也が主演した時も河野が刺青を描いている。
一方、古巣の日活撮影所は、映画界の斜陽からロマンポルノ路線に転換、撮影所に以前と違う艶かしいにぎわいが漂うようになった頃、河野はそれらロマンポルノ作品にも呼ばれ、宮下順子、谷ナオミらスター女優の肌に妖しい色香香り立つ彫物を描くこともたびたびあった。河野の描く刺青はポルノ女優たちがまとう究極の衣裳というべき味わいがあった。
◆文:ルポライター 鈴木義昭