貧乏暮らしから抜け出すため、思春期を迎えた麻生がアイドルに憧れ、芸能界を目指したのは、ある意味では“定番”のコースだったと言えるだろう。
「幼稚園の頃からアイドルが好きで、西田ひかるに憧れていたそうです。麻生は当時の自分を『自分のことを世界一かわいいと思っていた』『アイドルを目指してた痛い子だったから、いじめられても、しょうがない部分もある』と語っているように、この年代にはよくある、有名になりたい、チヤホヤされたいという自己承認欲求の側面もあったのでしょう。ただ、現実に芸能界を目指した直接の原動力はズバリ“お金”だったようです」(芸能評論家・小松立志氏)
それでも中学校に入学する頃には「自分はそこまでではないな」という冷静な目で自分を分析するようになっていた麻生。自分のランクを自覚しながら芸能界に飛び込んでいったのは、やはりハングリー精神のなせる業だろう。
「とにかく母親を助けるためには麻生がお金を稼ぐしかなかった。10代の女の子が、それなりのお金を稼ぐ方法は限られていますからね」(アイドル誌編集者)
95年、アイドル歌手志望として事務所に送った履歴書がきっかけとなり、「第6回全校女子高生制服コレクション」グランプリを受賞。映画「BAD GUY BEACH」でスクリーンデビューも果たしている。
一見すると順調なスタートだが、実はこの直前の麻生には、公式のプロフィールからも消されている“黒歴史”があるのだ。
「広田絵美」という芸名でデビュー、活動していた時期があり、かなり際どい仕事もしていました。ハメ撮り写真やヌードがバンバン載っていた『熱烈登校』や『シュガー』『クリーム』などのいわゆる“お菓子系”と呼ばれるエロ雑誌に登場。セーラー服やブルマ姿、超ハイレグ水着を見せたこともあります。現在の“着エロ・グラビア”のようなオファーもあったようでAV方面に進んでいた可能性は十分にあった。実際、ダマされて脱がされかけたことも何度かあったようです」(アイドル誌ライター)
だがそれでも、麻生は芸能界から逃げ出そうとはしなかった。その覚悟の強さは、高校卒業後の進路を決める際、芸能界と並ぶ候補の一つに「風俗」を入れていたことからもよくわかる。麻生は、のちのインタビューで当時の考えをこう明かしている。
「別に風俗でもいいか、ぐらいに思ってて」
「それだったらお金も稼げるし、家にお金も入れられるから」
そんな麻生の転機は10代最後。98年公開の映画「カンゾー先生」出演だ。日本映画界の巨匠・今村昌平監督の薫陶を受けた麻生は、日本アカデミー賞最優秀助演女優賞と新人俳優賞をダブル受賞している。
「今村監督はわざわざ麻生が育った土地を訪れるほど麻生のことを気にかけており、『映画に出続ける女優になってほしい』『トレディ・ドラマに出るような女優にはなってほしくない』といったアドバイスを送ったそうです」(映画評論家・秋本鉄次氏)
この出会いが決定的な影響を与え、麻生は本格派女優の道を歩み始める。
「転機の作品をもう一本あげるとすれば、コメディに初挑戦した06年のテレビドラマ『時効警察』(テレビ朝日系)のヒロイン役でしょう。当時は女優としての将来に行き詰まっていたそうですが、この役で従来のお堅いイメージを突き崩し、演技の幅が一気に広がりました」(スポーツ紙芸能デスク)
以降の活躍は周知の通りである。