ジャニーズで永田の3年後輩に当たるのが郷ひろみ(59)だ。ジャニーズ事務所の風習で、堅苦しい上下関係はなく、「えいちゃん」「ひろみ」と呼び合う仲だったという。
「私はとにかく彼を応援したくて、ステージで『すごい新人がデビューするんだ』と、彼のデビュー曲『男の子女の子』を歌って宣伝しましたよ。そのひろみが最近、ライブで私の『悲しきトレイン北国行き』を歌ってくれたことを人づてに聞いて、うれしくなりました」
80年代には「たのきんトリオ」「シブがき隊」を世に送り出すジャニーズ。その黄金期を待たずに、永田は事務所退社を決意する。77年のことだ。
「もともとロックが好きで、ジャニーズのカラーではないなと自分勝手に思い込んでいてね。13年間、本当によくしてもらいました。給与もけっこうもらっていたほうだと思いますよ(笑)」
フリーの道を選んだ永田は、地道に音楽家としてのキャリアを築いていく。
「いろいろな曲を作りましたよ。『赤い風船 日本旅行』やグリコの『パピコ』のCMも私の曲です」
87年に音楽事務所「オフィス・タッチ」を設立すると、本格的にプロデュース活動を始め、黒夢、IZAMといった人気アーティストを手がけた。中でも印象深いのが、デビュー前から知る奥菜恵(36)だ。
「奥菜は私の知り合いの娘さんで、パッと見た瞬間に『この子は百恵さんになれる』と直感しました。実際に8枚のシングルを出し、コンサートでは台本に書かれたMCのセリフをしっかりと頭に叩き込んで緊張せずにスラスラしゃべっていました。そのあたりは“女優”でしたね」
そのマネージメント能力を買われて、小林旭(76)を担当したこともあった。
「コンサートの手伝いかと思ったら、マネージャーをすることになったんです。私自身、アイドルをしていたので、なかなか人に頭を下げられない。でも相手が旭さんなら喜んで“小僧”になりますよ。それこそ、旭さんの喉の調子が悪い時などは、たんつぼとティッシュを持って、ずっとそばについていましたから」
打ち上げなどの酒席では、大スターならではの気まぐれな一面をかいま見ることもあった。場が盛り上がると、
「ガタガタ騒ぐんじゃねえ」
逆に静まり返ると、
「葬式じゃねえぞ、もっと盛り上げろ」
と、周囲を困惑させることもあったという。
「気難しい人でしたが、ステージはビシッとやりますよ。昼と夜の1日2回公演でも、まったく疲れを見せない。リハーサルから真剣で、バックが少しでも音を外すと、真っ先に指摘するのが旭さんでした」