橋口厩舎に所属したダンス2世には安田記念を制したツルマルボーイもいた。同郷の鶴田オーナーにとっての初のGIタイトルであり、「いつか2人で」という夢がかなえられた。この菊花賞と安田記念、ともに鞍上は名手・安藤勝己だった。
「私は納得できる負け方ができる騎手こそが、最もうまいと思っています。オーナーに対してだけでなく、馬券を握りしめているファンも含めてね。だから一流の彼や(武)豊君なんて『どう乗りましょうか』なんて聞いてこない。ハーツクライが有馬記念であのディープインパクトに勝った時も、(手綱を取る)C・ルメールが過去9年分のレースを見ていると聞いて、指示することをやめた。うちの厩舎に初の重賞をプレゼントしてくれた(『仕事人』の異名をとる)田島良保君も、依頼した翌日にビデオを借りに来た。さすがだなと思いましたよ。私は馬を仕上げるだけで、他馬との駆け引きはほとんど(騎手に)任せていた。レースのあとで、いらんこと言わなければよかった、と思うことのほうが多かったしね」
厚い信頼関係は騎手とばかりではない。90年、45勝で初の全国リーディングトレーナーに輝いた際には、厩舎スタッフから胴上げで祝福された。
「あのサプライズはうれしかったですよ。私ぐらいのものでしょう」
82年に開業時、「5年間辛抱してくれ」と8人のスタッフに伝えていた。
「自宅で夕食会を開き、その席で『私は調教師の息子でも騎手出身でもなく無名の男だから、最初の5年間で馬主の信頼を得て、そこからが勝負だ』という思いを話したものでした」
当時、どこの厩舎も重賞などを勝つと、祝勝会と称して、厩舎前でバーベキューパーティをしていたが、橋口厩舎ではそのあとにタクシーを呼び、飲み屋へと繰り出していた。
「カラオケは好きですね。十八番ですか? 北島三郎さん一本です。私の夢の一つは、北島さんの馬で大きなレースを勝ってね、祝勝会といえば当然、歌が出るだろうから、その時にサブちゃんの前で歌うことだったんですよ」
その夢も01年にキタサンチャンネルがニュージーランドT(GII)を制して、実現させている。
「事前に『まつり』の歌詞を変えていいですか、と断りを入れて『♪競馬だ、競馬だ!』って。そりゃ、盛り上がりましたよ」
昨年、北島が愛馬キタサンブラックで菊花賞を勝利して「まつり」を熱唱し、ファンの喝采を浴びたことは記憶に新しい。友人から「ようやるな」とアキレられたという度胸満点の歌いっぷりが参考になっていたことだろう。
「本当に幸せな競馬人生でした。息子もこの春から調教師ですし、4人の子供たちは皆、好きな道に進んでくれてますしね。まあ、子供のことは妻に任せっきりでしたが。(自宅兼厩舎の)2階に上がったこともなかった(笑)。これからはスポーツジムにでも行きますよ。週末はテレビの前であれこれと能書きを言いながら、馬券を買って楽しみたいですね。今年からは海外のレースも買えるようになりそうだし、フランスの凱旋門賞や、私が挑戦したイギリスのキングジョージVI世&クイーンエリザベスSに出走する日本馬を応援します」