今年も佐倉で「少年野球教室」を開催し、精力的に動き回った。生を享け、国民的スーパースターへと駆け上がっていくまでに幾多のドラマを生んだ地、そしてどんな時でも必ず戻ってきた場所──。長嶋茂雄を追い続けたノンフィクションライター・松下茂典が、ミスターの源流を訪ね歩いた。
ことし80歳の傘寿を迎えた長嶋茂雄が、こよなく愛するものは、桜と富士である。彼が生まれ育った千葉県佐倉市には「大佐倉」という地名がある。「大佐倉」は語源が「大桜」で、それが「大佐倉」に転じたと言い伝えられている。
かつて浪人中の長嶋が花と緑の農芸財団理事長を務めているとき、「なぜ桜が好きなのですか」と質問され、こんなカッコいい返答をしたのを覚えている。
「桜というのは満開のときも美しいし、散り際もすばらしい。でも、それ以上に、花を咲かせるため、1年間じっと耐え忍ぶところが大好きなんです」
11月13日の日曜日、佐倉市の岩名運動公園陸上競技場で「第3回長嶋茂雄少年野球教室」が開かれた。午前9時半、長嶋が薄茶色のハーフコートとニット帽をかぶってグラウンドに姿を現すと、どよめきが起き、拍手と歓声が交錯した。
この日、スタンドに集った一般観覧者は1200人。役員・関係者は160人。小学校1年生から6年生までの参加選手は504人。長嶋が巨人の監督を辞めて15年の歳月が流れたが、カリスマ性は健在だ。
開講式に臨んだ長嶋は、「みんな野球を楽しんでください」と、しっかりした口調で語ると、その後、競技場内を3時間も精力的に歩き回り、子供たちを指導した。キャッチボールの指導では、左腕をぐるぐる回し、「ひじを高く」と叫び、ゴロの捕球練習では両足を深く折り曲げ、「前で、前で」と大声を発した。
長嶋が「心原性脳塞栓症」(不整脈から冠動脈の中に血栓ができ、脳の血管を詰まらせる病気)で倒れたのは、2004年3月4日。以来、厳しいリハビリをみずからに課し、驚異的な恢復(かいふく)を遂げていた。
長嶋の指導を目を細めて見守っていたのが、佐倉市長の蕨和雄だ。
「さっきも、階段の上り下りを、不自由なはずの右足から突っ込んでいきました。お会いするたびに元気になられ、奇跡としか言いようがありません」
3回目を迎えた「野球教室」は、ほかならぬ蕨市長が仕掛け人だった。
「3年前、佐倉市民栄誉賞授賞式をここでやったとき、佐倉の子供たちに野球を教えていただけないかとお願いし、快諾いただいたんです。長嶋さんは『ライフワークにしたい』とおっしゃってくださっていますので、こうなったら、終生やっていただきたい(笑)」
10月16日、長嶋の愛弟子の松井秀喜が地元の石川県で「野球教室」を開いたが、まだ42歳。80歳になっての「野球教室」は前代未聞と言っていい。
小、中学校時代の同級生、小林光男に話を聞くと、勤勉なところは父・利(とし)、働き者なのは母・ちよの影響だという。
「臼井小学校の校門を入ると、広い校庭があって、校舎の前に二宮金次郎像がありました。登下校の際、生徒は全員、校門のところで一礼するのが常でしたが、茂雄ちゃんだけは、二宮金次郎像の前でもお辞儀をしていました。入学から卒業まで、登下校の際、二宮金次郎像に礼を欠かさなかったのは、茂雄ちゃんだけでした」
長嶋らしいのは、大田区田園調布に家を建てた時、庭に二宮金次郎像をつくったことである。
この日、小林は来賓として招待され、同級生2人といっしょに控え室に入り、長嶋に会った。
「3人が入っていくと、茂雄ちゃんは『おおーっ』と驚き、顔をくしゃくしゃにしました。持参したアルバムを開き、昔の写真を見せると、二宮金次郎像の写真に目を留め、『あっ、臼井小学校だ』と声を上げました。別れ際、長嶋家の4軒隣に住んでいた同級生が『昔のように呼ばしてくれるか』と言い、『茂雄ちゃーん!』と叫び、笑顔で別れました‥‥」
松下茂典(ノンフィクションライター)