15年からは古巣・西武の監督に就任した田辺徳雄は、吉田(山梨)時代に1度だけ甲子園に出場したことがある。2年生ながら3番・ショートでチームの主力を担っていた83年夏の選手権だ。そしてこの大会での初戦・箕島(和歌山)との試合が田辺を西武ライオンズ黄金期の名ショートたらしめるきっかけの一戦となるのである。
名将・尾藤公監督に率いられたこの年の箕島はエース・吉井理人(元・ヤクルトなど)を擁し、堂々の優勝候補の一角だった。当然、戦前の予想は箕島の圧倒的優位。ところがフタを開ければ9回表を終わって2-1と吉田がリードする予想外の展開を迎えていた。
それでも、ただでは終わらないのが甲子園の強豪・箕島だった。土壇場9回裏に1死三塁と一打同点のチャンスを作ったのである。迎える打者は前の打席にソロ本塁打を放っている5番・硯昌己。この硯に対して箕島ベンチはスクイズを指示するが、そのサインを察知した吉田バッテリーがウエストし、三塁ランナーは憤死。吉田は勝利まであとアウト一つと迫った。だが、勝利を確信するナインをよそに田辺だけはこう思っていたという。「あの箕島のことだ、必ず何かある」。実は箕島はあの星稜との延長18回以外にも甲子園では数々の奇跡を起こして勝利してきた。そのイメージが残っていたのだ。そしてその不安は不幸にも的中する。直後に箕島の硯にセンターバックスクリーンへの同点弾を浴びてしまったのだ。こうして試合は延長戦に突入するのだが、それでも吉田は13回表に吉井を攻めて1点を勝ち越し。今度こそ勝利かと思われたのだが‥‥。
その裏、再び箕島は反撃に転じ、吉田は1死満塁のピンチに追い込まれた。だが、ここで箕島の次打者が打った打球はショート・田辺の正面へ。おあつらえ向きの併殺で試合終了と思われたが、なんと胸で弾いてしまった。
こうなると試合はもう箕島のもの。最後はレフト前へ打たれ、健闘虚しく吉田はサヨナラ負けを喫したのである。
田辺に後悔があるとすれば、それは9回裏二死走者なしの時点でひと呼吸入れ、マウンドの投手に一声かけてやらなかったこと。そして最後のショートゴロだ。中途半端なゴロで本塁送球か、併殺かの判断が一瞬、鈍ってしまったのだ。プロ入りしたのち、最終回2アウトからピンチを迎えると、田辺の脳裏にはいつもこの箕島戦が去来したという。
(高校野球評論家・上杉純也)