明菜に提供した「少女A」の大ヒットで、売野氏は局面が大きく変わるのではないかと思った。ところが、期待したほど仕事の依頼は増えなかった。
「唯一、わざわざ訪ねていらしたのがライジングプロダクションを設立する前の平哲夫社長。まだ組織も固まっておらず、その時は『何か将来、一緒にやることがあれば』と話すにとどまりました」
やがて荻野目洋子(47)のマネージメントを目的に、85年に事務所を設立。荻野目の「ダンシング・ヒーロー」(85年)がヒットしたことで、平社長と売野氏は再会を果たした。
「律儀な人でした。やっとお願いができますと言って、3年前の約束を忘れていなかった」
売野氏は「フラミンゴ in パラダイス」(86年)からほとんどの作詞を手がけ、特に「六本木純情派」(86年)は、80年代アイドル史でも屈指の名曲とされる。平社長は荻野目以降も、安室奈美恵やSPEEDなど、実力あるアイドルの発掘に全力を注いだ。
「荻野目ちゃんのレコーディングにも平社長はよく顔を出して、『違う! 違う!』と意見することも多かった。平社長は、もともと青江三奈のマネージャーをやっていたので、ジャズシンガーとしてのアフタービートのノリが好きなんです。アイドルにありがちなヨコの乗りを拒否し、ビートを意識したタテの乗りを叩き込んでいった」
売野氏は荻野目のリズム感、さらに声のよさに圧倒されながら、共同作業としての作詞を重ねてゆく。「作詞活動35周年記念コンサート」に荻野目が出演するのも、事務所も含めて常に誠実に向き合ってきたからだという。
最後は、80年代後半のアイドルブームの中枢にいた菊池桃子(48)だ。
「河合奈保子と菊池桃子には『性善説』という言葉がそのまま当てはまる気がしました」
売野氏がアイドルと初めて食事する機会を持ったのが桃子だった。事務所社長から作詞を依頼され、顔合わせという名目だった。
「僕も初めてのことで緊張していましたが、彼女はそれ以上。何か詞のヒントにと質問すると、ひと言も返さずにちっちゃくうなずくだけ。こんな子がいるんだと驚きました」
売野氏は桃子特有の「ウィスパー唱法」を生かしながらも、今までより少しだけ積極的になれる詞を書いた。それが、振り付けも華やかな「Say Yes!」(86年)だった。
「事務所の社長が『日本一のお嫁さんにしたいアイドルにする』と、いきまいていましたが、彼女自身、そのイメージを壊したことは一度もなかったと思います」
近年、80年代アイドルがテレビや雑誌で取り上げられる機会は多いが、その魅力を売野氏はこう分析した。
「80年代は日本にとってもいちばんエネルギーのあった時代。そしてアイドルのそれぞれが代表曲を持っていて、あの時代の匂いを思い出させてくれる。それこそがアイドル黄金時代と呼ばれる理由です」
歌い手も作り手も激しく競い合う時代だった──。