A氏はこう続けた。
「パソコンのキーボードで、たった一つ、何の刻印もないspaceボタン。文字にも数字にも記号にもなれないけれど、ゆったりした隙間を生み出すことのできるspaceボタン。一度道を踏み外したものは悉(ことごと)く害虫として排除される、ギチギチで隙間のない息の詰まるこの社会の中で、僕は『spaceボタン』の役割を果たしたい」
やり取りを続けても、私の中で「体温」が上がることはなかった。人ではない「何者か」と言葉を交わしているような気がしてならないからだ。人は生きていれば汗をかき、匂いを発散し、埃にまみれ、また笑い、泣き、怒りもする。それが人の「生」であろう。しかし、A氏の言葉からは、こうした「リアリティ」を感じないのだ。
それは「虚空」。「私」が飲み込まれて、消えていくような錯覚に囚われる──それこそがA氏が「本物」である実感なのだろう。
私の目的は、A氏の「原点」を聞き出すことだ。私自身はようやく本書で実母との関係を「言葉」にすることができ、目を背けたい「原点」に向き合う一歩を踏み出すことができた。理由は、「絶歌」に対する私の批判点につながる。
批判は3つある。
出版後、土師淳さんの実父・守さんは「息子は二度殺された」と心痛を吐露した。「絶歌」は遺族了解を得ることなく、逮捕日に合わせる形で発売されている。A氏は毎年この日に謝罪の手紙を遺族に出していたはずだが、あの内容の出版物が、手紙の代わりだとすればあまりにも‥‥ではないか。
2つ目は、文中の一部表現である。特に淳さん殺害場面は、引用さえできないほどだ。A氏は「文学的表現」を混在させて「ノンフィクション」として描写する。「表現」を目的としているのであれば「フィクション」として稿を重ね、作品にすべきだった。
A氏は自らを「精神的奇形児」という言葉で表現しているが、3つ目はこの言葉に逃げ込んでいる点だ。自ら目を背けたい育成環境なども明らかにしなければ社会も、遺族も納得はしないだろう。
私が実名で、「少年院時代」や「母との関係」を明らかにしたのは、そんなA氏へのメッセージでもある。犯罪者は一生「贖罪」を背負わなければならない。私自身、何かが起こるたびに自身の「業」に気付き、その重さに押しつぶされそうにさえなる。それでも消せないから「贖罪」なのだ。
A氏がその後私から「逃亡」したことで、私の「絶歌」はいわば未完成となった。批判こそ次の表現の始まり。私は彼からの連絡を待ち続けている。
■柴田大輔(ノンフィクション作家):ペンネーム・工藤明男として刊行した処女作、「いびつな絆 関東連合の真実」(宝島社)は17万部のベストセラーになる。本作より、本名を明かす。関東連合元リーダー。ITや芸能の分野で活動後、警察当局に関東連合最大の資金源と目されていた。「いびつな──」刊行と同時に、暴対法における保護措置により保護対象者に。現在は、執筆活動を中心にスマホアプリの開発・運営をしている。最新作「聖域」(宝島社)では「関東連合の金脈とVIPコネクション」を描く。