「私は山田五十鈴の娘よ」
舞台の主人公である「唐人お吉」は、幕末から明治時代に実在した伊豆下田の芸者である。アメリカ総領事ハリスの妾となり、ハリスと別れた後は酒色におぼれ、最後は伊豆下田の海に身投げをして死んでしまう。その享年は喜和子と同じ48歳であり、最後の公演を行ったのは下田と程近い伊東であった。
喜和子の人生は、命を懸けていた芝居を除けば、お吉と同じく「酒とタバコと男」に彩られていた。石坂浩二や中村勘九郎(現・勘三郎)らと浮き名を流したが、誰よりも特筆すべきは「ガソリンをぶっかけたような恋」と称した三國連太郎との日々である。
喜和子は、まだ「俳優座養成所」に所属していた二十歳前の娘だったが、三國との恋になりふり構わず、北海道まで追いかけたこともあった。三國は生涯の傑作である「飢餓海峡」(65年/東映)の撮影中で、2人の同棲は半年ほど続いた。
本誌は、2人の別離から約10年後に、最初で最後となる対談を収録している。今どきの役者ではありえないだろう「その後の2人」の会話は、鋭い切れ味に満ちていた。以下、一部を抜粋してみよう。
太地 三國さんは、どうしてあの時、喜和子から逃げ出したんですか。
三國 (ながい沈黙)
太地 聞きたいの。
三國 十年目にして率直にいうけど‥‥あなたのからだにひれふすことがイヤだった‥‥そういうことです。あのころはぼくも若かったし、やり盛りだったから毎日でもできた。だけど、それは未来永劫につづくワケじゃない。
太地 でもよかった、お会いできて。
─太地は、場を用意した編集部にも礼を述べ、生涯ただ1人の男との再会を心から喜んだ。
「喜和子、こんなにうれしそうな顔をして‥‥」
再会の写真を見てほほえんだのは、喜和子の長らくの親友だったカルーセル麻紀である。筆者がカルーセルのもとを訪れる直前に、大女優の山田五十鈴が95歳で大往生したとの報があった。その訃報に、喜和子も亡くなって20年と思い起こした矢先のことだった。
五十鈴と喜和子には、こんな逸話がある。喜和子の文学座の先輩である樹木希林が、酒場で「醜くなったわよ」と毒づいた。この一言に喜和子は、こうタンカを切ったのである。
「あたしを誰だと思ってるの。あたしの本当の母親は山田五十鈴なのよ!」
舞台となったのは、渋谷にあった「ドン・キホーテ」という役者たちがお忍びで通うスナックだった。カルーセルは、そんなケンカは日常茶飯事だったと笑う。「石原裕次郎と勝新さんが取っ組み合いをやっていたり、喜和子だって勘九郎さんをワインの瓶で殴ったこともあったわよ」
生後すぐに養父母に預けられた喜和子は、本当の母親が誰であるのかを知らない。そのため、みずから女優としての物語を作るため、実母の名に山田五十鈴や淡谷のり子を語っていたという。