ホテルの前で勝新にせがんだ
加藤は映画では「獄門島」(77年/東宝)で、舞台は文学座デビューから最期の日まで、幾度となく共演を重ねた。
「あいつは台本や演出に対する好き嫌いが強いから、イヤだったら『病気になった』とか言って、ハナから出ない。その代わり、入れ込んだら命がけだったな」
その最たる例に、舞台で共演した「雁の寺」がある。加藤が接する日頃の喜和子は、ひたすら酒好きで、酔えば胸をはだけるような性格で、楽屋ではスッピンで過ごしている。
「ふだんはちっともどうこうと思わないのに、あの舞台では熟女の豊満な色気が漂ってくるんだよ。同じ舞台にいながら、どうかしたくなったくらいだ」
そんな喜和子の女優魂には、多くの役者たちが共鳴した。とりわけ勝新太郎は、ライフワークの「座頭市」に何度も招いただけでなく、喜和子が京都に来るたび、祇園の座敷へ案内した。そこに居合わせた芸者や舞妓は、同性でありながら、誰もが喜和子に惚れたという。さらに酒豪で鳴る喜和子と勝新は店がハネても飲み足りず、決まって喜和子がホテルの前で勝新にせがんだ。
「ウチの部屋で飲まない?何にもしないからさ」
加藤は喜和子の言い草に、それは男のセリフだろうと苦笑した。
「喜和子の葬儀は文学座の稽古場でやったんだけど、お棺の横に舞台で使った三味線を並べていた。勝さんはそれを手にすると、いつまでも弾いていたのが印象的。それだけ喜和子に入れ込んでいたんだな」
喜和子の最終章となる「唐人お吉ものがたり」は、92年8月13日の三越劇場から幕を切った。数々の名作をこなしてきた喜和子だが、この役への没頭ぶりは尋常ではなかった。加藤はアメリカの総領事という設定もあって、さほどセリフの多い役ではないのだが、稽古には「皆勤」を強いられたと言う。
「普通は自分の番だけ立ち会えばいいんだが、俺には最初から最後までずっと見て、あれこれ意見を言えって命令するんだよ。さらに、通し稽古が終わって、個別でやるのを『抜き稽古』って言うんだけど、それも見ていろと言う。台本は喜和子の書き込みでまっ黒けになっているし、拘束時間は長いしで大変だったよ」
加藤の目には、喜和子の消耗が見て取れた。糖尿や緑内障で失明の危機もあり、どこかで「これが最後」と予感しているようにも見えた。やがて公演が始まると、幕の合間にも加藤をそばに来させ、着替えながらアドバイスをメモするほどの集中力を見せた。
10月12日に静岡・伊東市の公演を終え、翌13日はモデルとなったお吉が生まれ、また入水自殺をした下田での公演が待っていた。しかし、その幕が開くことはなく、喜和子は車ごと夜明けの海に沈んでしまったのである。享年はお吉と同じ48歳だった。
「今でも伊東で公演があると、俺たちは海にお酒を流してお参りするんだよ」
女優であることにすべてを捧げた女は、それが宿命だったのだろうか──。