テリー 崑ちゃんは、小さい頃から芸の世界へ行きたいと考えていたんですか?
大村 そうそう、もともとうちの親父が、ええとこのおっさんやのに、おもしろい人でね。みんなから寄付を集めて祭の櫓を作ってその上で踊ってみたり、役者さんから衣装を借りて仮装してみたり、みたいなことが好きな人だったんですよ。僕を肩車して、神戸の繁華街・新開地に連れて行ってくれたりしてね。
テリー なるほど。そんなお父さんのもとで育ったから、芸心みたいなものが自然と養われていたんですね。
大村 で、高校を卒業したあと、芸能界を目指すために神戸のキャバレーでボーイを始めたんです。その店にいてたら、芸能人がいっぱい来るって聞いていましたからね。
テリー 実際、どうだったんですか?
大村 ホントにいろいろ来ましたよ。美空ひばりさん、江利チエミさん、雪村いづみさん、力道山とか。
テリー すごい! 当時の大スターばかりじゃないですか。
大村 それで、そのキャバレーで司会の仕事をするようになって、そのうち雪村いづみさんのマネージャーと親しくなるんですよ。その人に「プロの司会者になりたいんです」って頼んだら、名司会者の大久保怜さんを紹介してもらって、弟子入りすることになりました。そこで師匠が「大久保」の「大」と僕の本名の「岡村」の「村」をくっつけて、「大村崑」という芸名を考えてくれましてね。
テリー へぇ~、「崑」というのも珍しいですね?
大村 僕も最初はおかしな名前だと思って、「先生、崑だけですか? 崑助とか崑太とか、何か下に付けたほうがいいんじゃないですか?」って聞いたら、「バカ。アリナミンとかビタミンとか、最後に『ン』が付いてると、人に覚えてもらいやすいんだ」と。今にして思えば、いい名前を付けてもらったと思います。
テリー 司会の仕事は、どうだったんですか?
大村 3年ぐらい修業して、歌手とドサ回りの司会をしましたけど、月収7、8万はありましたから、そこそこ稼いでいたんですよ。
テリー えー、当時の7万って今の100万円ぐらいじゃないですか!
大村 でも、お笑いの仕事とは無縁ですから、それに対する不満はあったんですよ。そんな時、師匠のところへ、大阪の北野劇場の支配人が「お前のところの若いのを、うちの専属で使わせてくれないか」という話を持ってきたんです。あの頃の北野劇場と言えば、東京の「日劇」みたいなものです。そんな檜舞台に365日専属で出られるなんて夢のようで、喜んで「行きます!」って言ったね。月収は7万から3万に下がったけどね(笑)。
テリー ハハハ、でも金なんか関係ない、と。
大村 そう。そこで出会ったのが、佐々十郎や茶川一郎なわけです。
テリー おおっ! 大人気だったテレビコメディ「やりくりアパート」のメンバーじゃないですか!
大村 結果的には、この3人でやったのがよかった。2人とも浅草と新宿の軽演劇のコメディアンで厳しくてね、僕はこってりしぼられて、いじめられた(苦笑)。でも、そのおかげでこちらの芸も磨かれて、ドーッとウケるようになってきた。そうしてる間に「大阪テレビ」が開局して、僕の人気も全国区に広がっていくんですよ。