デビュー2年目のアイドル歌手・岡田有希子が所属事務所が入ったビルの屋上から身を投げたのは、86年4月8日だった。
自ら死を選んだ原因は、一説には当時42歳とふた回り年齢の離れた中年俳優・峰岸徹への失恋と囁かれた。86年4月24日号によれば、岡田有希子の遺書には「峰岸さんにふられた」とか「好きだったのに冷たくされた」という文字が躍っていたという。
だが、当の峰岸は、事件当夜の記者会見で「あくまで兄と妹のような関係」だったと、困惑した様子で反駁。自分が原因だったとは思えないと語ったうえ、ほかの理由に推測の輪を広げて会見を終えた。
アイドル歌手の投身自殺は、中高生や同世代の少年少女たちに大きな衝撃を与えた。以降、全国で後追い自殺が頻発。社会問題化し、国会で論議の対象となったほか、テレビに岡田有希子の幽霊が映っていたという騒ぎまで起きている。
岡田と違って死には至らなかったが、人気絶頂の中森明菜が、天国から地獄の淵をさまよったのは89年のことである。当時の彼女にはさまざまな軋轢に身動きがならなかった。
7月11日、マッチこと近藤真彦のマンション(東京・港区)。浴室の洗い場には、リストカットした明菜が血に染まってあおむけに倒れていた。89年7月27日号で、その「自殺未遂事件」の真相を追及している。
原因は、マッチと松田聖子との“ニューヨークの密会”だった。写真週刊誌の暴露で、事の次第を知った明菜は、惑乱の末に当時、体重が5キロも減っている。先の密会そのものは、聖子にすれば単なる“火遊び”にすぎなかったようだが、明菜にとっては最悪。彼女にとって聖子は“天敵”みたいな存在で、日頃から「百恵さんは尊敬するけど、聖子さんは大嫌い!」と告白する対象だったのだとか。
こうして恋は暗転したのだが、当時の明菜の左ヒジへの自傷は入院2週間、全治1カ月でことなきを得た。
その後、明菜は不調が続き、何度か復活が模索されるも現在に至っている。