打たれる不安は常にあった
遠山が初めて松井と対決したのは98年。当時、阪神に再入団した遠山は、体作りのためシーズンの大半を二軍で過ごしていた頃である。対する松井は、清原と交互に4番を務め、遠山との立場の違いは歴然であった。それでも、遠山はひるまなかった。
確かに松井君は威圧感がありましたね。でも、こちらもビデオや打席データを見て、研究をしてはいたので自分を信じて挑むだけでした。
とにかく相手の出方を見ましたね。インコースを投げたら、どんな反応をするのか。振ってくるのか、ピクつくのか。今度は目線を変えて、アウトコースに投げてみる。向こうが反応するまで投げ続ける。そうやって1球1球、考えながら投げました。ただ、あまり考えすぎると体が重たくなってしまうので、できるかぎりシンプルなピッチングを心がけましたね。
サイドスローを完全にものにした遠山は、翌99年シーズンには左の「松井キラー」として一軍で欠かせない戦力となっていた。
自分自身は松井君を特別意識していたわけではなかったです。巨人の4番の松井というだけでした。そうやって対戦していくうちに、周囲が「松井キラー」と呼びだしたんです。
試合を終えると、「また、(松井選手を)抑えましたね」と記者の人が言うわけです。最初は、気にしない振りをしていましたが、やはりどこかでプレッシャーを感じてはいました。今回は抑えたけれど、次は打たれるのではないか。そんな不安は常にありました。
でも、僕もピッチャーですから試合になれば絶対に抑えられると思って投げていた。ブルペンでは調子が悪くても、試合では絶対にうまく投げられる、自分は絶対に抑えられるという強い信念があった。そうしないと投げ抜けないんです。
そう語るとおり、遠山は気迫のピッチングで周囲のプレッシャーを押しのける。98年から02年まで、松井に対しての通算成績は39打数10安打。うち9打席は三振と、みごと抑え込むことに成功したのだ。特に99、00年シーズンの活躍は目覚ましい。2年間で対戦した23打席の中で、許した安打はわずかに3本。松井もさぞ悔しかったに違いない。
松井君との試合は、正直言えば細かく覚えていません。僕はとにかく一軍に残って、あの縦縞のユニホームを1秒でも長く着ていたいと、それだけを考えていましたから。とにかくがむしゃらです。逆に、松井君は僕との対戦で悩んでいる印象だった。あえて、こちらは考えすぎないで投げていました。僕らまで作戦を練りすぎると、向こうの意図と合わさってしまう可能性がありましたから。
ストレート、スライダー、そしてシュート。僕の武器はこの3つ。松井君は、特に内角シュートが苦手だったと思います。だからじゃないですが、松井君は僕のことを「顔も見たくない」と言っていましたけど、僕だって同じですよ(苦笑)。
対戦するたびに攻略してくるわけですから、正直言って大変でした。投げていて、「これはやばいな」と思ったら、相手の足を動かす意味で、あえてインコースの厳しいところにボールを投げたりもしました。そうすれば視点がずれて、今までの投球がリセットされる。危ない場面は、そういったこともやりましたね。