「あなたの夢を継承する」
一方、この約1年前に孫は世界一の展示会であるコムデックスを所有するインターフェイス・グループのアデルソン会長に電話を入れた。
「1年前の約束どおり、コムデックスを買収したい。至急会ってほしい」
スケジュールを合わせた。孫は、アドバイザーに相談した。アドバイザーは眉をひそめた。
「アデルソン会長はなかなかの食わせ者だぞ。最初に言っていた金額をずるずると引き上げていく。本当に売るかどうかはわからないぜ。交渉にしたって数カ月は最低でもかかるよ」
「そうか。でも、ぼくはあくまでも買収するよ」
孫は秘策を練っていた。
〈相手は名うての駆け引き上手。一発勝負だ〉
交渉の日、コムデックスのミーティングルームには、8人ほどの役員が孫を待っていた。
値段の折衝をはじめ、買収について必要な話が進められた。
孫は、ころあいを見てアデルソン会長に誘いかけた。
「一対一で話し合おう」
ミーティングルームを出て2人だけで話し合うことにした。孫は、アデルソン会長の眼をしっかりと見据えた。
「ぼくは、この金額については駆け引きはしない」
「わかった」
「1回だけ金額を言ってくれ。その金額が高すぎたら、いっさいの交渉なしですぱっとあきらめる。ある程度のリーズナブルな範囲なら、いっさいの値切り交渉なしで決意する。ぼくが思う範囲でちょっとでも高かったら交渉はなしだ。いいですね」
孫は、アデルソン会長の眼から視線を離さなかった。
「もしかすると、ぼく以外の人でもっと金額を出せる人はいるかもしれない。しかし、あなたは世界一の展示会をつくった。その力と夢を尊重して、あなたの夢を継承していかなければならない。コムデックスは、あなたにとってもっとも大きい事業でしょ」
アデルソン会長はうなずいた。
「もちろんそうだ」
孫は続けた。
「自分が生み出した子どもともいえるその事業が貧相になったら、あなたがつらいでしょう。ぼくも創業者としてその気持ちはわかるつもりでいる。あなたの夢を継承させることも含めて、トータルで判断してほしい。
あなたも知ってのとおり、ぼくはジフの出版部門がもっとも欲しい。フォーストマン・リトルに取られたけどまだあきらめていない。ここで揉めるなら、むしろ金や余力を残してふたたびチャレンジしたいと思っている。だけど縁があるなら、ジフの展示会も買収したからこっちをさらに強化していきたい。これが正直な現状と正直な本音だ。さあ数字を言ってください。そのかわり、さっきも言いましたが一発回答だ」
アデルソン会長は孫をじっと見据え返してきた。
「この男は駆け引きでなく本気で決意している」と感じたのか。孫も相手の目を見据えた。アデルソン会長の眼がかすかに柔らいだ気がした。
「よし、8億ドル(800億円)だ」
孫がにらんでいたのは7億5000万ドルから8億5000万ドルであった。
孫は、握手を求めて黙って手を差し出した。
アデルソン会長はその手を握った。交渉は成立したのである。
アデルソン会長は、ミーティングルームに戻ると役員たちに笑顔で話した。
「コムデックスは孫に売る」
役員たちはびっくりした表情を見せたが、一人も異論を唱える者はいなかった。
なお、コムデックスは世界のVIPが一堂に集い、数千億円もの商談が行なわれる場である。そのブランド効果は抜群だった。以前は会うことも大変だった有力者が、今は向こうから「会いたい」とアポイントを入れてくるようにまでなった。
孫は次に、ヤフーにも手を伸ばす‥‥。