矢野氏が解説する。
「尾張藩は財政難を乗り切るため『勤倹貯蓄』を奨励しますが、この『勤倹貯蓄』という考え方が受け継がれ、名古屋人気質を形成していった。それが明治以降、日本の産業革命の進展に伴い、戦後には日本最大の総合工業都市となり、さらには都市計画のモデル都市にもなった。ところが、それが人間関係の不器用さを生んでしまったんですね。文化はムダから生まれる、という言葉がありますが、名古屋はムダを排除しすぎたため文化的思考が薄くなり、結果、『おもてなし』的な部分が抜け落ちてしまったのかもしれません」
名古屋にはこの4月、屋外型としては日本初のレゴランドがオープン。名古屋市科学館のプラネタリウムは世界一と言われ、名古屋城や熱田神宮などの観光地もある。そんな名古屋に、矢野氏はエールを送るのだ。
「例えば、仙台や宇都宮にならい、名古屋駅近くのエリアに『名古屋めしロード』を造ってもいいだろうし、さらなるモーニング天国を目指すのもいい。これからは保守的な部分を卒業し、開放的な面を見せることです。河村市長にはぜひ、頑張ってもらいたいですね」
さて、河村市長はそんな声にどう答えるのか。
「戦争で焼ける前まで、名古屋はそれはええ町やったらしいですわ。ただ、ゼロ戦を造っていたこともあり、空襲がすごかった。で、その後の戦災復興事業がいかんかった。昔は土葬だもんで、お墓の移転なんてそうできんのですよ。ところが名古屋は、18万9000あったお墓を平和公園に移転した。で、道路がまっすぐになった。街というのはね、路地が残って味が出てくるもの。東京の神楽坂でも大阪でも同じ。そんなんで、名古屋には『月の法善寺横丁』みたいな路地がなくなってしまった。名古屋学院大学の学者が名古屋を『消毒都市』と言うとったけどね。昔の路地は非衛生的だけど味があった。それを全部ぶっ壊して、7メートル以下の道路を造らない、とやったことで、ピッカピカの消毒の街を造っちゃったというわけ。それが街から風情と情緒を奪ったんですわ」
今後、どうやって名古屋をイメージアップさせていくのか。河村市長が続ける。
「昔から、尾張名古屋は城でもつ、と言われたもの。だから名古屋城の木造化は欠かせない。焼ける前の図面も残っとるしね。最大の課題は道路だけど、実は信長が6騎の馬で大逆転勝利した桶狭間の戦いに出る時、実際に通った道を『人生大逆転街道』と名付けて、予算を付けて観光ルート化しとります。例えば女にフラれたり、子供が受験でつまずいた、就職に失敗した、選挙に落ちたとかよ(笑)。そういう時に信長が通った道を歩いて、生きる勇気を持ってもらう。途中で疲れたら居酒屋にでも来てもらってね。人情臭い味をどうやって出すか、それが今後の課題です」
秘策が奏功し、汚名返上といきたいところである。