当時、テレビドラマ界は視聴率でTBSが独走し、これをNHKと日本テレビが追走。フジテレビとテレビ朝日が後塵を拝していた。
朝日新聞出身で「テレビ朝日の天皇」と呼ばれた三浦甲子二専務は、起死回生の一手を石原プロに求めた。石原裕次郎、渡哲也というビッグネームを筆頭に多くの人気若手俳優を擁し、制作においては最高の技術力を持っている。
いずれテレビ界もアウトソーシング(外部制作)の時代がやってくる。視聴率の取れる娯楽作品を作るとしたら、石原プロをおいてほかにない。時代を見据えた三浦専務の経営感覚であった。
一方、コマサはここにビジネスチャンスを見た。テレビ局は放送枠を広告代理店に売り、広告代理店がスポンサー営業する。石原プロは制作を請け負うだけでなく、スポンサーを直接営業するという前代未聞の発想だった。
テレビ朝日はこの条件を呑む──これがコマサの読みであり、「石原プロを再建する千載一遇のチャンス」と見たのだった。
一方、日本テレビはどう出たかというと、意外にも気持ちよく送り出した。経営的観点から石原プロの直接営業を認めることができなかったこともあるが、当時のテレビ朝日は弱体で、新シリーズは失敗し、いずれ帰ってくるという思惑もあった。
こうして昭和54年10月にスタートした「西部警察」は「PARTIII」まで5年間続き、看板番組としてテレビ朝日を牽引していく。
今回、明らかになった秘史の一つだが、渡は「大都会PARTIII」の終わりをもって石原プロを退社するつもりでいた。渡は入社した当初から「5年」と区切りをつけていた。
幸いにも石原プロは、何とか倒産危機を脱した。この時、渡は37歳。脂の乗った大事な時期をアクション刑事で通せば、俳優として決してプラスにはなるまい。そう決心した矢先、「西部警察」の話が持ち上がったのだ。
コマサが石原邸でこの話を切り出した夜、帰宅した渡に裕次郎が電話をかけてくる。
──悪いな、遅くに。
「いえ」
──やることにした。
「はい」
──大変なのはテツだ。だからコマサに話す前に電話したんだ。
「お気遣い、ありがとうございます。精一杯やらせていただきます」
──ありがとう。じゃ、また明日。
この時、渡は俳優としての可能性を自ら封印したのだった──。
日曜夜8時のゴールデンタイムはNHK大河ドラマの独壇場で、他局にとって不毛の時間帯だった。「西部警察」は、あえてここにぶつけた。
「コンクリートでも割れ目に種まきゃ、花だって咲く。大河ドラマ上等。負ける気はしない」
裕次郎は記者会見の席で爽やかに笑って言った。
その言葉どおり、大河ドラマの向こうを張って「西部警察」は快進撃を続けていく。
だが、アクシデントはいつも得意の絶頂で襲いかかってくる。
昭和56年4月25日、裕次郎が倒れて慶應病院に救急搬送される。乖離性動脈瘤I型──。入院して数日後、血圧が288までハネ上がり、緊急手術が行われる。成功率はわずかに3%。裕次郎はこれに打ち克って「奇跡の生還」を果たす。
だが、意識は混濁し、集中治療室で支離滅裂な言葉がうわごとのように飛び出す。渡は思い悩み、そして決意する。
(痴呆状態になった裕次郎を世間にさらすくらいなら、ナイスガイのまま人生を終わらせてあげたい)
自分のこの手で‥‥。渡の心中を察したコマサが驚愕し、声を荒げた。
「テツ、お前、何考えているんだ!」
こうして5ヵ月におよぶ闘病の末、危機を脱した裕次郎は同年9月1日に退院する。
作家・向谷匡史