愛田ママは51年12月、岩手県久慈市に生まれる。久慈市といえばNHK朝ドラ「あまちゃん」の舞台。北限の海女の町である。しかし彼女の生家は農業だった。跡取り娘だった彼女は、県立久慈農林高校(現・県立久慈東高等学校)に進む。ただし幼少時から歌好きで、近所では評判の“歌手”だった。
海女の町・久慈は近代柔道の礎を築いた“柔道の神様”三船久蔵十段の出身地でもあり、柔道の町でもあったのだ。中学に入ると彼女も柔道を始め、高校まで三船久蔵記念道場に通った。そして高校卒業後は生家の跡を継がなければならない。すでに許嫁も決まっていた。しかし彼女の気持ちは久慈にはなかった。
「東京に出たい。歌手になりたい」
上京を親に懇願した彼女は、婚約を破棄し、東京の「立川バス」(本社・立川市)にバスガイドとして就職する。70年、18歳の春だった。住まいは会社の女子寮。ここで転機が訪れる。
同僚と飲みに行った店で歌っているうちに、「うちの店で歌ってみないか」と声がかかったのだ。
バスガイドの仕事は楽しかったが、彼女は半年で会社を辞める。
「バスガイドでも、お客さんの前で歌えたけど、やっぱり歌手になりたかった」(愛田ママ)
当時の立川にはまだ米軍が駐留し、多くの米兵がいた(立川基地が全面返還されたのは77年)。
立川は基地の町だった。バンドが入り、歌手が歌う店があった。彼女は約半年、立川の米軍クラブやパブでクラブ歌手として歌う。この頃には立川の人気者になっていたが、なんと半年後には夢がかなった。
「クラブでピアノを弾いてた人とか、音楽関係者とか、いろんな人のツテでプロダクションを紹介されて、歌手デビューを果たすことができたの」
紹介された事務所が「第一プロダクション」。千昌夫やぴんから兄弟が所属する大手プロだった。
幸運にも、バスガイドになるため上京してから1年、レコードデビューを果たす。71年7月だった。芸名は雪代あい、デビュー曲は「恋は女の通り雨」。歌手デビューのお披露目を故郷・久慈で行った。
「校長先生はじめ、大勢の人が聴きに来てくれた。市長の次に有名人になったの。うれしかった」
北は留萌から南は博多まで、全国を公演で回った。しかし前座の駆け出しが歌手だけでやっていけるわけではない。
ハコヤ(キャバレーなどを専門に歌手を派遣するプロダクション)から仕事をもらい、キャバレーの前座で歌って生計を立てる日々が続く。
「立川の寮を出てからは三鷹の3畳1間のアパート暮らしで、次に越したところも西武線・井荻の4畳半。家賃を払うのも大変だった」
歌手生活4年で3枚のレコードを出す。全て故郷が舞台の歌だった。
3作目はハコヤのプロダクションから制作の費用300万円を求められた。
「『テレビのスポットに金がかかる。その他の宣伝にも金がかかる』。そう言われて、応援してくれる親に泣きついた」
しかしレコードは売れない。そんな時、話し声が耳に入った。
「数百万なんてはした金、瞬きする間に消える」
彼女の目から初めて涙がこぼれた。
「“私は何とも親不孝”と、歌手をやめる決心がついた」
笹川伸雄(ジャーナリスト)