関西弁をポピュラーにした貢献者は誰か。明石家さんまを外すことはできないだろう。
さんまは今から40年ほど前、落語家からピン芸人に転向して大成功。関西発のお笑い芸人として、切り込み隊長のような形で東京に送りだされた。その端境期には、ツラい思いもしたようだ。エンタメサイトの運営者が当時をこう振り返る。
「さんまさんが20代の頃はまだ、関西弁が田舎くさいものとされていました。当時、若手俳優だった佐藤浩市さんたちとディスコに行った時、佐藤さんの友人から『(関西弁は)イモ臭い』と言われて、すっごいショックだったとか。でも同時に、“大阪弁で恋愛ドラマの主役を絶対にやる!”と反骨精神に火がつき、東京に進出したおよそ5年後の1986年、ドラマ『男女7人夏物語』(TBS系)で主役を務め、積年の願望をみごとに成就させました。さんまさんにとって“男女7人”は、いろんな意味で忘れられない作品なんです」
最終回で31.7%という驚異的な高視聴率を叩きだした同作は、青春の良き思い出を忘れられない大人の男女7人が展開するラブストーリー。さんまが、恋人役を演じた大竹しのぶと私生活でも恋に落ちるきっかけとなったドラマでもある。2人はその後、87年放送の続編「男女7人秋物語」(TBS系)、映画「いこかもどろか」(88年)でも共演して結婚。翌89年に愛娘のいまる(タレントのIMALU)をもうけたが、92年に離婚。以降さんまは、ほぼ四半世紀、独身を貫いている。
「さんまさんにとっては、大女優の大竹さんと結婚したことももちろんですが、大阪弁で恋愛ドラマの主役を張れたうえに、高い数字を弾きだせたことが、何よりの誇りだったそうです。“男女7人”シリーズが日本中を巻きこむ社会現象になったことで、“この先も絶対に大阪弁をやめないでおこう”と誓ったとか」(前出・エンタメサイト運営者)
さんまが関西弁を開拓・浸透させたことによって、関西芸人のその後の活路が見いだされた。その功績は計り知れないと言っていいだろう。
(北村ともこ)