現在、春夏の高校野球全国大会は甲子園球場で行われているが、1915年と翌16年に行われた第1回、第2回大会は大阪府にある豊中球場がその舞台だった。だが、次第に高まる野球熱もあって人気が拡大。豊中球場では大観衆の輸送がままならないということで、’17年の第3回大会から会場を兵庫県西宮市の浜辺にあった鳴尾競馬場へと移すことになる。この鳴尾競馬場の中に野球場が2面あり、これを使うことになったのだ。同時に現在のような入場行進を含む開会式のセレモニーもこの大会から始まった。スタンドも増設されて2万人収容となり、阪神電鉄もピストン輸送を繰り返して大阪、神戸からのファンを運んだのである。
このように画期的な変貌を遂げた大会で優勝を飾ったのが愛知一中(現・旭丘)だった。現在は愛知県が誇る公立の進学校だが、かつての同校は夏の選手権にこの17年から29年までの間に8回もの出場を果たした県内きっての野球強豪校だった。さらに付け加えると、この時の愛知一中は、これまでの春夏の甲子園大会の歴史において唯一“敗者復活”から勝ち残って優勝したチームでもあるのだ。
敗者復活制度はこの年と前年の第2回大会で採用されていた。というのも当時の参加校数ではうまくトーナメント表に収まらなかったため、それをしのぐ措置として採用されていたのである。この第3回大会では初戦敗退した6校の中から4校が抽選で敗者復活を行い、初戦で長野師範(現在の信州大学教育学部)に4‐3で敗れた同校が和歌山中(現・桐蔭)を1‐0で下して2回戦へと進出。そこから明星商(現・明星=大阪)に2‐1、杵築中(現・大社=島根)にも3‐2で競り勝ち、決勝戦まで勝ち進んでしまった。
そして迎えた決勝戦は関西学院中(現・関西学院=兵庫)と対戦。試合は6回表に関学が1点を先取し、その裏あと1アウト取れば試合が成立する場面を迎えたのだが、何とここで突然の豪雨に見舞われ、そのまま降雨中止。翌日に再戦となってしまった。
その再戦も接戦となった。試合は関学が押し気味に進んだが、一方の愛知一中も一度は死んだ身、しかも前日の試合もあと1人で負けというところを猛烈な夕立で救われ、完全に開き直っていた。結局、0‐0で迎えた延長14回表に決勝点となる1点を挙げ、そのまま1‐0で逃げ切ったのである。5試合すべてが1点差。しかも合計で10点しか取っていないチームの優勝ということになった。
さて、最後に敗者復活戦のその後である。この愛知一中の優勝でさすがに「1回負けたのに優勝するのはおかしい」という異論が続出し、この大会限りで廃止となっている。ちなみに何の偶然か、愛知一中の主将は大会前のミーティングで「敗者復活で勝ち上がってきても、決勝を勝ったら優勝か」と主催者側に確認していたという。
(高校野球評論家・上杉純也)