事故当時の東電社長、清水正孝(68)も業務上過失責任が問われて当然の人物だ。
勝俣と清水の事故後のあり方はまったく対照的だ。
株主総会でも、政治家との交渉でも、マスコミへの対応でも、勝俣は常に矢面に立った。責任追及はのらりくらりとかわしながら、東電という会社を守るために、勝俣は終始、鉄面皮ぶりを示してきた。
では、清水はどうだろうか。勝俣が清水を社長に選んだ理由は「馬力があるから」だった。清水は筋力を鍛えるために常に脚に1キロのおもりを付けていたという。だが、その「馬力」は3・11当日に使われることはなかった。清水は仕事と偽って、夫人と奈良旅行を楽しんでいた。事故後の対応もふぬけぶりを示した。
1号機、3号機が爆発したあとの11年3月14日、福島第一原発から東電が撤退しようとしている、との情報が官邸に入る。のちに「全面撤退」か「一部撤退」かで問題になる事案だ。
官邸に呼びつけられた清水は、「撤退なんてありえませんよ」と当時の菅直人総理に言われると、「はい」と答えてモジモジしているだけだった。不安になった菅は、東電本店に細野豪志補佐官(当時)を常駐させる対策本部を作ったのだ。
清水はその後、独り言を言うようになり、3月16日に倒れ、社内で休んでいたが、同月29日には入院してしまう。
一時復帰後の4月11日には、謝罪のために福島を訪れた。だが、連絡のミスで、佐藤雄平福島県知事と会見できない、という失態を演じる。かえって、福島県民の怒りを駆り立てた。
その後、清水は、雲隠れする。東電病院、四国の親戚、慶応病院、順天堂病院などを転々としていたようだ。その入院中に、都内に買った高級マンションのローンの残高を一括繰り上げ返済している。神奈川県内に実家があったが、我々のスタッフが調べると、すでに売却済みだった。
清水が住む都内の一等地に見上げるようにそびえるタワーマンションには、ゲストルームやバーラウンジまであり、買い物の手配をしたり、面倒を見てくれるコンシェルジュが24時間稼働している。
スタッフが清水に直撃取材を試みようとしたが、失敗に終わった。何せ出かける時は、ポーターのいる駐車場から、そのまま車で出て行ける環境である。東電社長としては、無責任極まりない事故から“逃亡”したように、今も口うるさい他人とは会わない生活を送っているのだ。
今年春、清水は東電が筆頭株主である富士石油に「天下り」をした。我々のスタッフが問い合わせたところ、「社外取締役なので、出勤はしません」とのことで、やはり接触はできなかった。
大熊町から避難し、いわき市内の仮設住宅で暮らす主婦はこう語る。
「こちらは2LDKに6人家族で住んでいます。元の住まいに帰れるかどうか、まったくわからない状態で希望も何もなく、ストレスだけがたまるばかりです。事故の責任者である社長が、タワーマンションに住む贅沢な生活をしているなんて、おかしくないですか」