女優・吉永小百合(67)の半世紀をおおまかに分けると、日活でヒットを連発した60年代は青嵐期、独立後に道を模索した70年代は雌伏期、そして80年代から「第二章」が始まったと言えよう。
日活を卒業した70年代は、中村錦之助(後の萬屋錦之介)主演の「幕末」(70年/中村プロ)を皮きりに、各社の映画や、封印していた連続ドラマにも数多く出演。ただし、新世代の女優が台頭したこともあり、興行的にも評価的にも苦戦を強いられた。
「私にふさわしい脚本を書いていただけませんか」
稀代の脚本家である早坂暁に申し入れ、そして生涯の代表作と呼ばれる「夢千代日記」(81〜84年/NHK)が誕生する。前号でも触れたが高視聴率のままに三部作を重ね、さらには映画化(85年/東映)の運びとなった。
ここで早坂は脚本だけでなく、企画者としてもクレジットされている。そこに長らくの盟友である監督の浦山桐郎から電話が入ったという。
「しばらく映画を撮っていなくて鬱々(うつうつ)としているようだった。じゃあ、僕が企画も兼ねるから、お前さんが撮るかと言ったんだ」
浦山は62年に吉永の出世作である「キューポラのある街」(日活)を、75年に「青春の門」(東宝)を撮り、これが10年ぶり3度目の顔合わせとなる。生涯に9作しか映画を撮らなかった浦山だが、吉永や大竹しのぶなど、女優を育てることには定評があった。
ここで吉永が演じた夢千代は、原爆症で余命2年を宣告されながら、置屋の女将として芸者衆や旅の男たちと関わってゆく。ドラマ版では生き永らえていた夢千代も、劇場版では最期の瞬間を迎える。東映の惹句師である関根忠郎は、こんな名コピーをこしらえた。
〈お別れです。いのち残り火、終ついの恋映え。〉
吉永はドラマ版の成功で早坂のシナリオに絶大な信頼を寄せていた。いくつもの作品を抱える早坂は必然的に遅筆になることもあったが、吉永はこんな感想を漏らしている。
「スタジオでみんなが原稿を待っていると、早坂さんの手書きの原稿がファックスで1枚ずつ送られてくるのですが、その内容は宝石のように素晴らしく輝いているのです」
また早坂も吉永の新たな魅力を知った。夢千代が芸者衆や旅の男の話を聞く場面で、吉永自身が近視であるために顔を相手のほうへ近づける。その首筋の角度が絶妙に色っぽく見えた。こうしたお互いの呼吸があり、さらには吉永を育てた浦山が加わる。ドラマ版の人気もあり、映画化は万全と思われたのだが─、
「浦山が気負いすぎていた。もともと『〜日記』というくらいだから、小百合さんが淡々と日常を綴っていくような作りだったのが、映画では違う形になってしまった」
結果的にこれが浦山の遺作となり、吉永に始まった監督人生は、吉永によって寂しく幕を降ろす‥‥。