ヨネクラジムでは、選手のランクによって、待遇も“区別”された。4~6回戦ボーイたちは、寮からまとめて車に乗せられ、神宮外苑でロードワークに励む。それが日本王座を狙える位置まで上がってくると、伊豆や熱海でキャンプを張らせてもらえるようになる。ハングリー精神を刺激され、のし上がったことを身をもって実感できる米倉会長の心配りにガッツ氏は大いに励まされた。
「会長は、世界挑戦までした元選手だったから、選手の気持ちがわかったのでしょう。減量に苦しんだ試合のあとは、『何でも好きな物を食べろ』と金に糸目をつけなかった。こちらも意気に感じました」
ガッツ氏は、まだ無名だった6戦目から、その後の代名詞となる「三度笠スタイル」で入場した。74年11月、「幻の右」と呼ばれる右のクロスカウンターで8回KO勝ちし、WBC世界ライト級王座を獲得。勝利後の「ガッツポーズ」は今や喜びを表現するポーズとして、世代を超えて日常的に使われるまでになった。ガッツ氏が続ける。
「世界王座を奪取した時点で、すでに11敗もしていました。にもかかわらず、会長は晩成型である私の資質を見抜いて、負けてもチャンスを作り続けてくれた。ヨネクラジムでなかったら世界王者にはなれなかったでしょうね」
その米倉会長が、“150年に1人の天才”というキャッチフレーズで売り出したのが、90年2月に世界王者となった大橋秀行氏である。
当時、日本人選手は世界戦で21連敗を喫していた。そんな中、日本ボクシング界最後の切り札としてWBC世界ミニマム級王座に挑戦した大橋氏は、9回KO勝ちで劇的な勝利を収めた。大橋氏が語る。
「僕の試合の4日後に、マイク・タイソンが東京ドームで試合をしたこともあって、一気にボクシングブームが起きた感じですね。ジムは見学の人であふれていたし、練習生も増えました」
横浜高校時代にインターハイを制し、専修大のボクシング部でも活躍した大橋氏は当初、ヨネクラジムに入門する予定ではなかった。元WBA世界フライ級王者の花形進氏が地元・横浜で立ち上げたばかりの花形ジムの目玉選手としてデビューすることが決まっていたのだ。
そんな大橋氏のもとに、米倉会長は連日勧誘の電話をかけてきた。花形会長の「お前のためにはヨネクラに行ったほうがいい。育て方もマッチメークもいいから」との勧めもあり、米倉会長と面会することになったという。
「その時、『キミの目は間違いなく世界チャンピオンになる目だ。私は何万人も見ているからわかるんです』と言われました。うれしかったですね。そのひと言で決まりです。もっとも、会長は普通の見学生に対しても『キミの目は間違いなく‥‥』と言っていたんですが。僕がそれを知ったのは入門後のことですけどね(笑)」