大橋氏は、入門と同時に英才教育を受けることとなった。米倉会長の自宅からわずか100メートル先の寮に住み、毎朝6時に始まるロードワークからジム内でのトレーニングまで、徹底的に管理された。食事は会長夫人が作る栄養バランスの取れたメニューをごちそうになった。隣にはいつも米倉会長がいた。まさに「虎の穴」とも言える徹底した管理トレーニングで、肉体を鍛え直したのである。
鳴り物入りで入門した大橋氏にとって、ヨネクラジムの練習メニューはハードだった。腹筋、背筋といった筋力トレーニングの回数も、アマ時代とは一桁違ったという。また、合同練習であるがゆえに、叩き上げの同僚選手たちが、エリートの大橋氏に負けてたまるかと必死にメニューをこなす姿が目に入る。気を抜く暇はなかった。
「練習もプライベートもすごく厳しかった。食事中に『音を立てて食うな』と怒られたこともあります。花形ジムだったら、花形さんの人柄から、そこまで管理されることはなかったでしょう。それに地元・横浜だから、たぶん遊んでたはずです。それを考えると、あの厳しさがあったからチャンピオンになれたと思いますね」(大橋氏)
大橋氏は現役引退後、大橋ジム会長として4人(女子を含む)の世界王者を誕生させ、10年から16年まで日本プロボクシング協会の会長も務めている。
「現役時代から、米倉会長にはボクシングの技術以外のこと、ファイトマネーの話やスポンサーとのつきあい方など、細かいことをたくさん教わりました。恐らく、僕が将来、ジム経営者になることを予測していたんでしょうね」
そんな米倉会長が体調を崩して入院したのは今年3月。程なく、8月いっぱいでの閉鎖が発表された。ガッツ氏が無念の表情で惜別の思いを語る。
「会長の体調がすぐれず、医師である息子さんも後を継ぐ意志がないことは、以前から聞いていました。会長は私の現役時代から『オレ一代で終わり』と話していたんです。ご自身が実践したような情熱を傾けての指導は、自分以外にはマネできないと考えていたのでしょう。有言実行でスパッと辞める潔さは、会長らしい美学だと思いますね。7月に、ヨネクラの後輩たちと一緒に、栃木県内の静養先へ見舞いに行ってきたんです。体もいたって元気。好々爺という言葉がぴったりの表情でした」
寂しさを隠せないのは大橋氏も同様だ。
「前々からジム閉鎖の話は聞いてはいましたが、現実となると本当に悲しい気持ちになりました。何とか存続できないかとも思ったのですが、会長が決めたことですから‥‥。出身者が経営しているジムと合併して名称を残すという手もあったかもしれませんが、目白にあってこそのヨネクラジムですからね」
惜しまれつつ幕を閉じることとなったヨネクラジムだが、そのDNAはしっかりと受け継がれる。冒頭で紹介した溜田は、9月から大橋ジムに移籍することが決まっている。ヨネクラジム最後の遺伝子を、秘蔵っ子だった大橋氏が引き受けたのだ。
「不遜な言い方に聞こえるかもしれませんが、ウチのジムから4人も世界王者が誕生したのは、不思議でも何でもないんです。なぜなら僕は、ジムを開いてから全てをヨネクラからパクってきたんですから。もちろん、これからもヨネクライズムを継承していきますよ。溜田をチャンピオンにしてね」(大橋氏)
名門ヨネクラジムは姿を消すが、その魂は今後も生き続けていく。