日本の映画界を背負う3人の若手女優─宮崎あおい、満島ひかり、小池栄子が顔を並べ、吉永扮する「はる先生」の教え子として向かい合う。共演者でありながら、主演の吉永との火花が散るような演技の応酬も楽しみなところである。
かつて黄金期にあった映画界は、ひたすら1人を盛り立てるための「スターシステム」にあった。吉永小百合は日活の看板スターであったが、それがどれだけ客を呼んだのか?
日活に昭和30年に入社し、東京や大阪の劇場支配人を担当した黒澤満が証言する。
「吉永さんの初日舞台挨拶ともなると、こんなに集まるのかと思うくらい、劇場に人が波打っていました」
やがて黒澤は日活の撮影所長なども歴任したが、スター俳優たちと同じく古巣を離れ、プロデューサーとして松田優作や仲村トオルらを育てる。黒澤が設立した「セントラル・アーツ」は、多くの映画やドラマを作る制作プロダクションで、吉永とは「時雨の記」(98年/東映)で初めて本格的に組んだ。相手役の渡哲也も日活を支えた看板スターであり、一時は吉永との恋仲が伝えられたこともある。黒澤は、2人が「愛と死の記録」(66年/日活)から約30年ぶりの共演を果たしたことを喜んだ。
「私も日活の後に東映(傘下)に入れてもらって、そこに吉永さんと渡さんの映画。非常に感慨深いものがありました」
そして黒澤は、今回の「北のカナリアたち」にも企画者のクレジットで関わっている。ロケは1年をかけて北海道の礼文島や利尻島で行われたが、冬のロケに同行すると、信じられない事態が待っていた。
「地元の人たちが20年ぶりだと驚くくらい、ものすごい寒波が襲ったんです。ラスト近くに吉永さんと森山未來君が2人だけで話すシーンは、風が吹けばマイナス30度という悪天候でした」
それでも吉永は「寒い」の一言すらも発せず、雪が全身を突き刺すような状態でも動じない演技を重ねた。黒澤は今、思い返しても、あの日の吉永の頑張りようには感謝の言葉しか出てこない。
そんな極寒のロケは、永遠のサユリストである綾小路きみまろの耳にも入っていたという。
「相当の準備で臨まれたと聞いております。小百合さんの役者魂に頭が下がります。そのエネルギーと同じほどの力をキャンペーンにもそそがれる方で、大スターのいつまでも謙虚な姿勢に心酔します」
ただ悪条件を耐えたというだけではない。怪優の石橋蓮司が舌を巻き、若手の3人の女優にすんなりと席を譲らない「新しい吉永小百合」がいた。黒澤は、阪本順治監督と丹念に打ち合わせを重ねる姿を何度も見ているし、また阪本も、吉永の別な一面を見せることへの意欲に燃えていた。
稀代のマドンナの最終章は、ここから始まるのかもしれない─。