女優だけでなく、歌手としても「レコード大賞」を筆頭に数多くの実績をあげた。日本が誇るマドンナの吉永小百合だけに、その結婚においても、親族や限りない数のファンをいかに納得させるかに苦心する。そして選んだのは、戒厳令下のままに強行することだった‥‥。
今年、歌手デビュー50周年を迎えた三田明は、吉永小百合(67)にとって“弟弟子”にあたる。昭和を代表する作曲家・吉田正の門下生として「美しい十代」でデビューし、同じく吉田門下生の吉永とはデュエットの機会にも恵まれた。
「最初は『若い二人の心斎橋』(64年)という大阪・心斎橋のイメージソング。といっても、小百合さんはすごく忙しい人だったから、レコーディングは別々だったんですよ」
橋幸夫とのデュエットで第4回日本レコード大賞に輝いた「いつでも夢を」(62年)にしても、やはり双方が多忙なため、別録りであったと記録されている。
さて三田は、主題歌のデュエットだけでなく、映画での共演も「明日は咲こう花咲こう」(65年/日活)で果たした。
「僕らから見たらマドンナ的な存在でしたから、撮影の間もアガっちゃって、何を話したかなんてまるで憶えていないですね。歌でようやくご一緒したのは、吉田先生を中心にした歌番組だったと思います」
以降も吉田正を囲む会合で何度か顔を合わせた。若い自分たちよりも率先してお酌して回る気遣いに、見習う部分は大だった。
そんな吉永の歌手としての出発点を知るのは、ビクターでディレクターを務めた谷田郷士である。谷田が直接、吉永を担当したのは80年代以降だが、吉田正との縁は深く、何度となくエピソードを聞かされた。
吉永が母親とともに吉田邸を訪ねたのは61年のこと。少女時代は「ひばり児童合唱団」で指導を受け、クラシックピアノを習っていたこともあって、さらに本格的なレッスンのために吉田門下生となった。顔合わせの日は吉田の到着が遅れたそうだが、母子は正座を崩さずに待っていたと谷田は言う。
「その年、各社競作でヒットした『北上夜曲』が小百合ちゃんの課題曲。1年ほどレッスンを重ねて、晴れてデビューを迎えました」
当初は映画主題歌の「草を刈る娘」がデビューに予定されていたが、1節に「まんずまんず」とある民謡調の曲で清純派のイメージと異なる。そのため「寒い朝」をデビュー曲に前倒しし、20万枚のヒットを記録した。ピアノを習っていたため音感もよく、透明感があってキラキラした響きの「売れる声」だと谷田は思った。
当時の日活は石原裕次郎や小林旭など「歌うスター」が多かったが、吉永も肩を並べ、63年に11枚、64年に9枚と驚異的なペースでシングル盤を発売する。ところが72年の「首ふり赤ベコ」を最後に、12年間もレコード発売が途絶えてしまう。
「趣味の乗馬で落馬してしまい、腰を強く打ったことが原因。声が出にくくなって、しばらく歌をやめていたんです」
谷田の熱意で歌手を再開したのは84年のことである。