東京・高輪の閑静な住宅街に、3階建ての家を千秋(せんしゅう)与四夫は構えている。夫人はベテラン歌手の畠山みどりで、千秋はフジテレビ開局からの花形プロデューサーとして鳴らした。
「これは3階の和室で撮った写真だけど、おそらく小百合ちゃんも持っていないはず。40年目に初めて公開する貴重な写真だよ」
花柄模様のワンピースを着た吉永が、年上の男性と左手の薬指に指輪を交わしている。結婚式のハイライトシーンであることは間違いないが、新郎新婦ともに平服であり、床の間然とした場所は大スターの挙式には不似合いだ。千秋は73年8月3日の“熱く長い1日”を回想する。その日から3日前、フジテレビの同期入社で、ドラマ班の看板ディレクターだった岡田太郎の申し出が始まりだった。
「千秋君の家で僕たちの結婚式をやらせてくれ」
千秋は驚き、いったんは断ったが、岡田の懇願に了承することにした。当時、芸能マスコミを騒がせたように、岡田は離婚歴があって吉永とは15歳の年齢差だ。そのことが吉永の両親を、親子の断絶も辞さないほど激怒させた。その日の披露宴と会見こそ公の場で行うが、挙式だけは簡素に済ませたいという両人の願いだった。
「新郎新婦に、立会い兼仲人の形で僕とみどり、それに小百合ちゃんの母親代わりの介添人として先輩女優の奈良岡朋子さんに来てもらった」
たった5人の挙式だった。これに岡田と吉永が密会に使っていた新宿の寿司店の大将が料理を振る舞いにやって来ただけ。吉永が28歳、岡田は43歳であったが、千秋は吉永の心底嬉しそうな表情が忘れられない。
「常々、30歳までには結婚したいと言っていた。女優業が壁にぶつかっていたこともあり、吉永という姓を変えたかったみたいだ」
千秋が音楽番組の演出家として吉永に出会ったのは、歌手デビュー間もない63年のこと。看板番組の「スター千一夜」で歌ってもらえないかと打診した。当時は「五社協定」の影響で映画スターがテレビに出ることは少なく、日活専属の吉永も同様だった。
また当初は吉永の母親にも「小百合は映画女優なのよ」と却下されたが、粘り強く交渉を重ね、吉永家の信頼を得るようになる。そして「歌謡大全集」という30分番組に出演を取りつけた。
「小百合ちゃんに『セリフのように歌い、歌うように語れ』なんて生意気なことを言っていたけど、あの日の歌唱は、まさしくすばらしい表現力だった」
千秋が吉永に歌ってもらったのは、祖母との思い出を歌った「おばあちゃん」という6分ほどの大作。フジテレビの最も大きなスタジオを使い、背景は影絵だけで時間軸を表す。そして千秋は、吉永にこんな注文を出した。
「最後に『おばあちゃ~ん!』と呼びかけるところでポロッと泣いてほしい」
吉永は了承し、撮影まで5分だけ時間をくださいと申し出た。さらに、どんな涙がいいのかと聞き、千秋は「一滴だけこぼれる涙がほしい」と言った。「それはもうみごとに一滴だけ涙が流れ、忘れられない場面になりましたね」
やがて吉永を「スター千一夜」の司会に抜擢し、海外の大物たちにインタビューしてもらった。石川さゆりの歌手デビュー時には「小百合さんにあやかった」という芸名秘話に協力してもらっている。こうした縁が、簡素な結婚式につながったのだが‥‥。