「ものまねに対する基本的な考え方が違いました。当時、ものまねを見せる持ち時間は一人1分ちょっと。僕の場合、五木ひろしさんなど、大きなネタをやるとどうしても4分はかかってしまう。やりたいことができないもどかしさもあった。当時のプロデューサーに逆らったのは、僕が最初で最後ですよ。その後1年間は、ものまね番組に出ませんでした」
92年、コロッケ(52)は「ものまね王座決定戦」=以下、ものまね王座=(フジテレビ系)を突然、降板することになる。当時32歳。四天王ブームが、まさにお笑い界の頂点に君臨していた時期のことだった。
だが、コロッケにはある思いが日に日に高まっていた。
「“ものまね芸”を“ものまねショー”へと、ステップアップさせていきたい」
ものまねの第一人者として、さらに高みを目指そうとしているコロッケにとって、「ものまね王座」は夢の舞台から重荷になっていた。
コロッケが夢みていたのは、お笑いの添え物でしかなかったものまね芸を、エンターテインメントとして確立することだった。
「これまでの演芸は、まず前座でものまねをやって場を温めてから漫才、トリが落語となっていましたが、僕はものまねだけで一つのステージを成立させたかった。『ものまね王座』で優勝してからその思いが強くなって、ソロでコンサートツアーを始めました」
90年4月にスタートしたコロッケの初のソロツアーは全国20カ所を回る大規模のものにもかかわらず、連日、大盛況。その余勢を駆って、その年の年末にはものまねディナーショーにも進出。こちらも好評を博した。
コロッケは徐々にエンターテイナーとしての自信を深めていく。
「後輩たちにも道を作ってやりたかった。『頑張ればここまでできるんだ』と。そういう使命感もありましたね」
ところが、「ものまね王座」を降板して以来、それまで真っ黒だったスケジュールが、あっという間に真っ白になった。
「グッチ裕三さんにも『ここ(ものまね王座)を辞めたらダメになるよ』と言われた。その時に僕は『裕三さん、船は出たのよ』と言ったらしい(笑)。全然覚えてないんだけど‥‥」
テレビに出なかった2年間はスナックやショーパブなど、いわゆる“営業”で食いつないだ。
「つらい時期でした。それでもふんばってこれたのは、母が教えてくれた“あおいくま”という言葉があったからこそ」
のちに、コロッケが著書「母さんの『あおいくま』」(新潮社刊)でも振り返っているこの言葉は、物心ついた頃、女手一つでコロッケと1つ違いの姉を育てた母が、2人に教えた教訓のことである。
あせるな
おこるな
いばるな
くさるな
まけるな
この頭文字を取った“あおいくま”が、コロッケの心の支え、励みになった。「この時期ほど、この言葉が身にしみたことはありませんでした。次のチャンスに向けてネタを山のように考えましたね」