100年を超える日本の映画史は、時には世界と互角に渡り合う実力を見せつけた。あの一作がなければ、潮流は大きく変わってたであろう「革命」がここに!
今はなき大映は、その名のとおり大作路線をひた走っていた。その集大成として公開されたのが「釈迦」(61年)である。映画界の名物男だった永田雅一オーナーの悲願は、史上初の70ミリ大作として実現。
当時、大映の宣伝マンだった中島賢氏が回想する。
「大映は黒澤明監督の『羅生門』(50年)がヴェネチア国際映画祭でグランプリを受賞。ただ、評価のわりに客は入らなかった。その後の『日蓮と蒙古大襲来』(58年)は、宗教映画でありながら、大がかりな特撮も功を奏して、驚くほど客が入った。僕らも永田社長の熱意にほだされ、とにかく切符を売りました」
そして「釈迦」へとつながる。ラーメンが1杯30円の時代に、5億円もかけた超大作である。実際には70ミリのフィルムをかけられる劇場はほとんどなかったが、それでも永田は、完成したことに涙を流して喜んだそうである。
「映画の中で、釈迦が仏門に入る前の奥さんを、勝新太郎が強姦する場面がある。これに対して東南アジアの仏教国から猛抗議という一幕もありました」(前出・中島氏)
こうした娯楽大作と並行して、大映は社会派の傑作も数多く誕生させている。その頂点に立つのが、モスクワ映画祭銀賞や、キネマ旬報ベスト・テン第1位に輝いた「白い巨塔」(66年)である。田宮二郎の当たり役として知られるが──。
「山崎豊子さんの骨太な原作、社会派の山本薩夫監督のタッチに、田宮がよく応えた。それだけに、永田社長とケンカして大映を去ったのは本当に惜しかった」(前出・中島氏)
さて、前出の「羅生門」は興行的に失敗したが、黒澤明の「七人の侍」(54年、東宝)は世界中で大ヒット。そればかりか、「荒野の七人」など、本作を手本にした外国映画も数多く作られた。
ところが、この歴史的な傑作は、日の目を見ない可能性もあった。こだわり派の黒澤らしく、撮影は遅れに遅れ、撮影所所長は予算と日数オーバーの責任を取って辞表を提出。
東宝は途中までのフィルムを編集して公開するよう命じたが、試写では大決戦の直前で映像がストップ。
「これの続きは?」
重役にそう聞かれた黒澤は、堂々と「1コマも撮っていません」と告白。あまりのおもしろさに追加予算が決まり、重役は「存分にお撮りください」と告げた。撮影中止を誰もが惜しむ出来栄えだったのである。
映画ジャーナリストの大高宏雄氏は、「人間の條件」(59~61年、松竹)や「砂の器」(74年、松竹)と並び、「飢餓海峡」(65年、東映)を推す。青函連絡船の転覆事故と、どさくさにまぎれた殺人事件を、老刑事が10年もの歳月をかけて執念で追い続ける。
監督は内田吐夢、老刑事に伴淳三郎、若手刑事を高倉健、そして犯人を三國連太郎が演じた。
「企画から完成までを見ても、なんと撮影所の責任者が3人も代わるほど製作日程が長く、公開も延期されたほど。さらに16ミリのモノクロ映像を35ミリにブローアップ。犯罪の起点になる冬の凍てつく北海道の荒れた風景がザラザラした映像で表現され、抜群の効果を見せた。中身では、悪の権化のような主演の三國連太郎もすごいが、娼婦・左幸子の色っぽさとかわいさったらない。一夜だけ関係した三國を終生思い続け、三國から切り取ったツメで自慰行為をするシーンは、映画史上に残る」
さらに70年代に入ると、映画が斜陽産業と言われながら、興行収入を塗り替えた「日本沈没」(73年、東宝)や、映画界の風雲児となった角川春樹が参入した「犬神家の一族」(76年、角川春樹事務所)や「人間の証明」(77年、角川春樹事務所)が、潤沢な予算とともに大作主義を復活させていった──。